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中泊の戦い

外城救援に赴く道中,上村晴生は,

「私は十中八九,小島長友は中泊へ出てくると考えております。

中泊の早将軍(早智伯)などは,
長友を存分に叩いて一気に湯朝を平らげることを考えておいででしょう。」

と述べた。

太子はこれには少し驚いて

「湯朝とは長年争い,常に一進一退であった。一戦で決まるものであろうか。」

と疑問を投げかける。

晴生は,

「これまでとは違います。

長友には山奈父子のような徳も才覚もありません。

それ故,湯朝をまとめることは難しく,
まして戦に敗れれば一気に長友から人心が離反するでありましょう。

湯朝は割れるばかりとなります。

この一戦を契機として一気に湯朝を平らげることは可能です。」

と言った。

小島長友はやはり,外城征伐へ向かう途中で本隊を転進させ,
中泊へ向かった。

しかし,中泊を守っていた春成皇子は側近の早智伯の進言により,
中泊の郊外に伏兵を配して長友を待ち受ける。

春成皇子の軍は大勝した。

小島長友は,乱戦のなかで斬り死にする。

湯朝軍は壊滅と言ってよかった。


外城氏救援

綾朝は,突如として山奈頼康の脅威から解放された。

建文30年・湯朝の享福11年(1540),
山奈頼康が病により31歳の若さで急逝したのである。

頼康の子は幼かったために影響力を発揮することはできず,
湯朝では,頼康の後継の座を巡って権力闘争が始まる。

湯朝には,譜代開明派・譜代保守派・山奈派の三派があり,
さらに三派に属さない嶺外の諸侯らがいた。

これまで政権を担ってきた山奈氏二代は,
自派と譜代開明派の協力を基盤としてきた。

そして頼康逝去の後は,新たに小島長友という人物が権力を握る。

長友は,山奈氏による政権に協力して,譜代開明派の中で頭角を現し,
今や譜代開明派の最重鎮になっていた。

譜代開明派の小島長友が権力を握ったことで,当初は,
引き続き譜代開明派と山奈派による政権が維持されるかと思われたが,
長友は,幼い当主に率いられる山奈家を軽視し始め,政権の枢要部から
山奈派の人物を遠ざけるようになる。

長友の狙いは,開明・保守両派の譜代を統一して政権を担うことであった。

長友の譜代重視はしかし,山奈派や嶺外の諸侯から反感を買う。

綾朝側はこれを見逃さない。

対湯朝戦線は春成皇子が担っていたが,これを補佐していた智将 早智伯は,

「これまで以上に調略が功を奏すでありましょう。

にわかに湯朝に属した者などは,こちらに靡く者も出るでありましょう。」

と,湯朝への調略を進言した。

春成皇子は,智伯の進言を採用する。

成果は早くも建文32年(1542)には現れた。

湯朝嶺外の諸侯である外城氏が綾朝へ鞍替えしたのである。

外城氏はかつて湯朝朝廷に反旗を翻して没落し小諸侯に転落していたが,
元は天堂氏と並ぶ大勢力であり,
嶺外東部に未だに大きな影響力を持つ勢力であった。

外城氏は綾朝の援軍を得て嶺外東部の要衝 三津城を攻撃する。

湯朝の小島長友は,三津城を救援,外城氏を退けた。

翌建文33年(1543)になると長友は,
4万もの兵を率いて外城征伐に出陣した。

皇太子は,津京にあったが,外城氏救援の声が上がると,

「湯朝軍は中々兵数が多いように思います。

長友は,三津城での戦勝の勢いに乗って,
外城氏を平らげるだけでなく,
一気に我が国まで呑み込むつもりではありますまいか。

その腹づもりならば,あるいは長友は外城を攻めると見せかけて,
中泊方面へ転進してくるのではないでしょうか。」

と懸念を示した。

太子の側近であった上村晴生(うえむら・はるみ)は,
それに合わせて,

「その昔,山奈広康は嶺外東岸を平らげた後,
驚くほどの速さで川手地方へ出てきた事があります。

同じような手を使えば,外城氏を攻撃すると見せかけて,
こちらを外城救援に注力させその隙に,
中泊へ殺到することは出来ましょう。

こちらも中泊方面の兵を東岸地方へ動かすと見せかけて,
そのまま中泊に留めておくのが良いでしょう。」

と述べた。

結局,この献策が通り,外城救援は,
津京・東岸地方の兵で行われることになり,
その救援軍は太子が率いた。


泉の戦い

山奈広康が世を去った後も,広康の子 頼康が湯朝をまとめて,
綾朝の脅威となっていた。

また北の重光氏も綾朝が湯朝に圧迫されている間に態勢を立て直し,
またも勢力を拡大し始める。

重光義康の後を継いでいた義廉(よしかど)は,
建文25年(1536)に再度,司馬氏を降し,同年中には北方遠征を行って,
能瀬氏をも降すに至った。

さらに建文27年(1537)には,久方ぶりに南氏の勢力圏へ食指を伸ばして来たので,
皇太子は,早智秋・上村晴世・安代栄家・川本康彦らとともに救援に赴いた。

ほぼ,一か月に渡って山内近郊で対峙するに至ったが,
両者とも決定打に欠け,和睦となる。

建文28年(1538)に入ると,山奈広康の後を継いだ頼康が,
湯朝軍を率いて泉方面へ進出してきた。

この動きに重光氏も呼応し南領へ侵入したため,
綾朝は,南北より挾撃を受けることとなる。

今回も,皇太子は,早智秋・上村晴世・
安代栄家・川本康彦らと南氏の救援に向かう。

南氏では,当主となっていた一和(いちかず)は,
山内を固守しつつ,春田氏と結ぶとともに能瀬氏に調略をかけて,
重光氏から離反させ,危ういところで重光氏の勢いを止めた。

重光氏は能瀬氏討伐へと反転する。

安代栄家や川本康彦は,

「この機に乗じて,重光氏を討ち,後顧の憂いを断つべきである。」

と言ったが,

早智秋・上村晴世は,

「湯朝が侵入して来ている最中でもあり,
重光氏を追いかけるのは得策ではない。

重光氏が能瀬討伐に向かっている今の間に,
我らは取って返して湯朝の攻撃を受けている南方へ救援に向かうべきであろう。」

とした。

このころ,湯朝軍は,篠井を陥落させることに成功すると,さらに北上し,
綾朝第二の街である 泉を攻撃した。

頼康は,綾朝皇太子の軍が南方戦線にあって名和平原が手薄な内に,
少しでも勢力を拡大しようと企図したのである。

そのような情勢から太子は,

「どちらも一理あるところである。

しかし,この度は,国を挙げて湯朝に当たろうと思う。」

と述べて,湯朝の攻撃を受ける泉へ救援に向かった。

皇太子が泉に接近中であることを知ると,
山奈頼康は,泉攻略の機は去ったと見て引き上げていった。