最期

花岡同盟と対立する主要な諸侯は,
海西の北,湖庭の香上(こうがみ),河首の秦(はた),湾陰の大神のみとなっていた。

しかもこれらの諸侯の内,
北家は,今原・河本両家の攻勢の前に瀕死の状態と言ってよく,
香上家は,陪臣であった姫村孝治(ひめむら・たかはる)によって
領国の西半を奪われてしまっていた。

大神家も一条家との長い抗争に競り敗れて,
今や逼塞を余儀なくされている。

花岡同盟に敵対する諸侯のこうした凋落ぶりとは対照的に,
一条家は今や畿内と西国全域を押さえ,
その保有総兵力はおよそ10万を数えるようになっていた。

花岡同盟の頂点に立つ智綱は,実質的には天下人であり,
広奈国の再統一まではあと一歩というところだった。

だが,彼にはもはや時間が残されていなかった。
智綱は,日野祥親との和睦が成立した,興徳22年(1476)には,
肺病の症状を呈するようになり,年明けを待たず,
あえなく薨去してしまったのである。

家督継承以来40年弱,享年は57歳であった。

智綱の後継には,彼の嫡男 智宣(とものぶ)がついたが,
彼は智綱の才略を毛ほども受け継いではいなかった。

興徳25年(1479),智綱以来の軍師 上村綱晴までも逝去すると,
一条家は急速に衰退を始める。

そして,沈黙していた大神朝高が動き始める。
朝高は,日野祥親に一条家との和睦を破棄させ,
さらに高田氏とも手を結んだ。

やがて三氏は共同して,連年,
一条領へ兵を進めてくるようになった。

このように朝高があっという間に西国の情勢を変化させる間,
智宣は何もできなかった。

智綱という奇才と多年に渡り,
しのぎを削ったことで円熟味を増した大神朝高と,

若く凡庸な智宣では役者があまりにも違いすぎていた。

日野・大神・高田三氏の攻勢に次第に競り負けるようになった一条家は,

興徳30年(1484)には,
本領の玄関口とも言うべき楯岡をも明け渡すことになってしまう。

そしてこの年,朝廷で変事が起こった。
興徳帝が崩御し,その後継をめぐって諸皇子が都内で武力衝突する事態となったのである。

癸卯(きぼう)の変である。

都の一条軍は,皇太子 詮宗を援けたが,
第五皇子 詮邦は,平泉氏の軍を利用して太子に対抗した。

平泉氏は松下の会戦以来,花岡同盟の諸侯であったが,
ここに至ってついに一条家に反旗を翻したのであった。

一条軍は,平泉氏の突然の挙兵に,
不意をつかれて混乱しきりであり,
太子を都外へ脱出させるのが精一杯であった。

太子は,近年西国の諸侯に連敗している不甲斐ない一条氏を頼ることは諦め,
母の実家である今原家の元へと落ち延びた。

一条家は,皇帝家の変事を収められなかった。
天下の覇位は,今や一条家から去ったのである。

智綱の才略を持ってしても
結局,広奈国の再統一はかなわぬままであり,
亜州でも依然として諸国家の抗争が続いていた。

長引く動乱の世に終止符が打たれる兆しは,一向に見えなかった。


両日野氏制圧

そして今度は,智綱が攻勢に転じる番であった。

本来,戦に勝つために最も有効な方策は,
敵よりも多くの兵を運用することに他ならない。

智綱は,この単純だがしかしなかなか難しい方策を実行した。

一条家は,今や北の大貫,東の堂島両氏を完全に滅亡させ,
南側にしか敵を抱えていない。

そこで智綱は,これまで大貫・堂島両氏に備えてきた兵力をも
対両日野戦線へと投入したのであった。

さらに堂島氏の軍事的圧迫から解放された沢渡氏にも協力を仰いだ。

一条・沢渡連合軍は,6万を数えた。

対する両日野氏。
有帆日野氏の軍3万に,
蘇我日野氏が兵1万を率いて合流した。

興徳19年(1473),両軍は,鹿野(かの)という地で対峙した。
日野氏にとって,本拠 有帆の外郭とも言うべき要衝である。

蘇我日野氏が,一条軍の挑発に乗って突出したところから一気に戦局は動いた。
蘇我日野軍1万は,壊走を余儀なくされ,後には有帆日野軍が残るばかりである。

蘇我家当主 元総(もとふさ)の直情径行の行動が招いた結果に,
有帆家当主 祥親は,歯噛みする思いであったが,
事ここに至ってはしかたなく,すぐに全軍引き上げを決定した。

要衝を明け渡した有帆日野氏は,
以後,防戦一方となった。

一条軍は連年,日野領へと侵攻し,
その領国を次第に蚕食していった。

時折,大神軍が一条軍主力の留守を狙って,
旧大貫領方面へ進出することはあったが,
それも散発的なものに終始した。

興徳21年(1475),智綱は,いよいよ日野氏との抗争に決着をつけるため花岡を出,
前線に近い楯岡に入った。

日野氏を下すまで花岡には,戻らない覚悟である。

日野祥親は,蘇我日野氏・大神氏らの協力を得てなんとか各地の要衝を堅守,
本拠の有帆に一条軍を近づけないでいた。

ところが,興徳22年(1476)に中須の戦いで一条軍に敗れると,
有帆日野氏は,蘇我日野氏との連絡を遮断され,
いよいよ窮地に追い込まれることとなった。

そして,有帆の最終防衛網たる矢崎でも,
日野・大神連合軍は一条軍に大破された。

ここに至り祥親は,他日を期すため,
ついに一条家との和睦を選択したのであった。


両日野氏との抗争

智綱は,まず今度こそ完全に大貫残党を滅ぼすことにした。

しかし,大貫残党を攻めれば大神軍が出てくることは明らかである。

そこで智綱は,両日野氏の領国へ攻め込むと見せかけておいて,
突如,軍を反転させ,大貫残党が籠もる岩下を電撃的に包囲した。

興徳17年(1471)のことである。

当時,大神朝高は齢七十という高齢を理由に隠居して
家督を息子 頼高(よりたか)に譲っていたが,
この頼高という人は朝高に似ず,温厚なだけのおひとよしといって良かった。

朝高は,一条軍の動きを知ると
「一条軍の真の狙いは,日野領ではなく大貫残党。」
と頼高に忠告したが,頼高には父の思考が理解できなかった。

しかし,朝高の予見は当たり,
一条軍が,日野領ではなく大貫残党を攻めたと知って,
頼高はおおいに狼狽した。

当然ながら,大神軍の大貫残党救援は,遅れに遅れた。

そんな状態の大神軍が,戦場の岩下に到着したからといって,
何か出来ようはずもなかった。

一条軍の備えは,岩下の大貫残党に対しても,
大神軍に対しても完璧であった。

ついに大貫残党の籠もる岩下では,兵糧が尽きた。

あけて興徳18年(1472),一条軍は,たやすく岩下を攻め破り,
大貫残党を殲滅したのであった。

この間,両日野氏は楯岡に攻撃を仕掛けていた。
日野祥親は,父 国親の轍を踏まず,
持久戦によって楯岡を下すことを考えていた。

両日野軍は,堅い備えを以って楯岡の一条軍と対峙したのであった。

智綱は,大貫残党にとどめをさすと急ぎ楯岡の救援に向かった。
智綱も,祥親も慎重であり一向に両軍の均衡は崩れなかった。

しかし,一条家に意外な援け舟が出された。

花岡同盟の諸侯である河本氏と高山氏が共同で,
蘇我日野氏の領国を窺ったのである。

楯岡の戦場から蘇我日野氏の軍が引き上げた。
日野祥親は,有帆日野氏単独で一条軍と対峙し続けるのは不可能であると判断し,
ゆるゆると引き上げっていった。

一条家の危機は去ったのである。


反一条包囲網復活

さて西国の状況は,小康状態を保っていた。

一条家を目の仇にし続けてきた大神家の勢力が,
弱まっていたからである。

しかし,まだ有帆日野氏には,一条家に対抗する余力が残っていた。

興徳11年(1465),日野軍は,
またも楯岡に進出してきたのであった。

とはいえ,有帆日野家には
もはや逸材と呼べるような者はいなくなっていた。

当主 国親が凡愚を絵に描いたような人物であり,
諫言する忠臣・賢臣を遠ざけて阿諛追従の佞臣ばかりを重用してきたからである。

これではまともな戦略・戦術が立とうはずもない。

今回の楯岡の役も,国親自身の深い考えから起こったものではなかった。

武断派の威勢の良い言葉に乗せられて,
つい出陣する気になったといった程度のものであった。

こんな具合に始まった遠征であるから,
その陣営の雰囲気はすこぶる浮ついたものであった。

一条軍が楯岡周辺の地勢を生かして,
あちらこちらへ打って出て攻撃をしかけると,
日野軍はたちまち浮き足立って翻弄されるばかりである。

そしてついには,
国親自身が流れ矢にあたって重傷を負うという事態にたち至る。

有帆日野軍は,ほうほうの体で引き上げるという体たらくであった。

まもなく国親は戦場で受けた傷がもとで亡くなり,
その嫡男 祥親(よしちか)が有帆日野氏の家督を継ぐこととなったのである。

しかし,結果的に国親の死は,
皮肉にも有帆日野氏の勢いを回復させるきっかけとなった。

新当主 祥親が,父 国親を数段上回る器量の持ち主だったからである。
祥親は,興徳14年(1468)には,蘇我日野氏との関係修復にあたり,
さらに,悪化しつつあった大神氏との関係をも好転させはじめた。

大神氏はといえば,このころには,先の敗戦の衝撃から立ち直り,
富国強兵にいそしんでいた。

智綱からも一目おかれた大神朝高は,
再び暗躍を始めるようになっており,
一条領内の大貫残党としきりに連絡をとった。

大神・大貫残党は連年,旧大貫領へ侵攻してくるようになり,
これに呼応して有帆日野軍も度々,一条領を侵すようになった。

こうして反一条包囲網は半ば復活してしまったのである。


帝室の混乱

一条家は,帝国内の最大諸侯であり,
その力によって花岡同盟の諸侯を束ねつづけていた。

智綱は西国にあったが,彼の一挙手一投足は,
その実,帝国版図の隅々にまで影響を与えていたと言ってよい。

一条智綱は,まさに乱世の覇者であった。

しかし,智綱がいくら奮闘しようとも,
帝国がかつての勢いを取り戻すことはなかなかに難しいことであった。

当の皇帝家自体に問題があったからである。

時の皇帝 興徳帝は,践阼当初から酒色に溺れるなど,
その行状にはおおいに問題があった。

智綱は,折りに触れて諫言したのだが,まるで効果はない。

しかも,興徳帝は歴史に学ぶということ知らない人であった。

順正帝の御世を再現するかのように,
いやそれ以上に酷いお家騒動の種を蒔いてしまうのである。

帝には即位10余年を経た頃すでに10数名の皇子がいた。

その内,太子に立てられたのは皇后 馥子(ふくこ)との間に生まれた
長皇子 詮宗(あきむね)であった。

しかし,帝はその後,仲子(なかこ)という女官を寵愛するようになり,
彼女が産んだ詮里(あきさと)という皇子を,
あろうことか太子同然に扱うようになってしまった。

だが話は,それだけでは済まない。
帝の寵愛がやがて,如子(ゆきこ),
さらに季子(ときこ)という女官に次々と移っていったからである。

帝は,今度は如子が産んだ詮歳(あきとし)皇子をかわいがり始め,
続いて季子が産んだ詮邦(あきくに)皇子を溺愛した。

結果,女たちは後宮で
「我が子こそを太子に」
とばかりに激しく火花を散らすようになっていく。

もとより帝は,次々と寵愛する女官を変えて,
彼女たちの争いの火に油を注ぐばかりであり,
その争いを収める努力などしなかった。

後宮での激しい争いはやがて,
皇帝家の権威を利用してのし上がろうとする諸侯たちの内にも飛び火する。

諸侯たちは,自分に都合の良い皇子を次の皇帝にするべくさまざまに運動するようになった。

智綱は,
「長幼の序を乱した結果,どのようなことになるかは,よくよくご存知のはずです。
皇子の中にあって太子は,最も尊重されるべき存在です。」
と帝に諫言したが,

これもやはり通じはしなかった。

仕方はない,智綱は将来に備えるべく,
花岡同盟内で太子を支持することを確認,
さらに花岡同盟の結束を固めるために同盟内での政略結婚を促進したのであった。