百三十一世30年・綾朝の大成2年(1569),入朝拒否を理由として,
綾朝軍35万が日生国へと侵攻を開始する。
初瀬口は,水陸より泉晴徴・二条誠興・重沢彰里・高屋敦綱(たかや・としつな)・
早若高(そう・なおたか)ら10万が侵入。
山吹口は,水陸より,里見泰経・志賀直尊・原瀬宗和・四方堂国顕ら6万。
泉口は,こちらも水陸より,大津喬元・大谷時景・川上紀泰・本宮利亮ら6万。
尾崎口は,司馬房之・長谷貞親・仁科高晴・豊県行尚(とよがた・ゆきひさ)ら5万。
海東でも,芳野口に,泉重斉・御風晴時・安東高広ら4万,
上平口に西井英孝・比奈良牧(ひな・よしひら)・朝霞師家ら4万が殺到した。
日生国は,総勢20万。
初瀬口は,神聖自ら指揮を執り,香耶秀治・飛良遊暁・原政人・鞠谷凌らが陸路を,
早良晟・沢渡玲らが水路を守った。
美城神聖の養子 長岡聖君も初陣を迎える。
山吹口は,奈瀬能平・瑞城亮・斎藤友成・緒方哲彰ら,
泉口は,高須陽視・後藤信暁・世礼集・沢木基・葉月誠世らが,
尾崎口は,御月高任・世礼健・浅宮尚臣・九識譲(くしき・ゆずる)らが守備に当たった。
海東では,千楽元季・安城密(あんじょう・ひそか)・里谷行晴が芳野口を,
上平口を姫路嘉景・松本敬古・雛上鏡(ひながみ・かがみ)が守った。
また,八坂結子(やさか・ゆうこ)が,美城にあって海西・海東の連携・補給を担当して,
前線に不足を生じさせることがなかった。
綾朝軍35万が日生国へと侵攻を開始する。
初瀬口は,水陸より泉晴徴・二条誠興・重沢彰里・高屋敦綱(たかや・としつな)・
早若高(そう・なおたか)ら10万が侵入。
山吹口は,水陸より,里見泰経・志賀直尊・原瀬宗和・四方堂国顕ら6万。
泉口は,こちらも水陸より,大津喬元・大谷時景・川上紀泰・本宮利亮ら6万。
尾崎口は,司馬房之・長谷貞親・仁科高晴・豊県行尚(とよがた・ゆきひさ)ら5万。
海東でも,芳野口に,泉重斉・御風晴時・安東高広ら4万,
上平口に西井英孝・比奈良牧(ひな・よしひら)・朝霞師家ら4万が殺到した。
日生国は,総勢20万。
初瀬口は,神聖自ら指揮を執り,香耶秀治・飛良遊暁・原政人・鞠谷凌らが陸路を,
早良晟・沢渡玲らが水路を守った。
美城神聖の養子 長岡聖君も初陣を迎える。
山吹口は,奈瀬能平・瑞城亮・斎藤友成・緒方哲彰ら,
泉口は,高須陽視・後藤信暁・世礼集・沢木基・葉月誠世らが,
尾崎口は,御月高任・世礼健・浅宮尚臣・九識譲(くしき・ゆずる)らが守備に当たった。
海東では,千楽元季・安城密(あんじょう・ひそか)・里谷行晴が芳野口を,
上平口を姫路嘉景・松本敬古・雛上鏡(ひながみ・かがみ)が守った。
また,八坂結子(やさか・ゆうこ)が,美城にあって海西・海東の連携・補給を担当して,
前線に不足を生じさせることがなかった。
二年に渡る大戦の始まりであり,
両年の干支より己巳・庚午の役(きし・こうごのえき,つちのとみ・かのえうまのえき)と呼ばれる。美城神聖は,また,
「綾朝も一枚岩ではない。」
として,かねてから親交のある綾朝内の親日生派に働きかけた。
「和平が成就すれば上出来であり,そうでなくとも綾朝に亀裂を生じさせることが出来れば,
我が国は,勝利に近づく。」
と考えてのことである。
我が国は,勝利に近づく。」
と考えてのことである。