遠征

ところで,リュイトでは,日生国の支援を受けたリュイト人による,
イストラからの領土回復が進展していた。

イストラは,旧リュイト帝国領からは追い払われたが,
それより南,特に北緯31度線以南のアウグスタ植民地には確固とした勢力を持っており,
アウグスタ西海岸のサン・カルロと南洋のマナン島と,
華大陸を結ぶ貿易路を確保していた。

マナン諸島は,イストラにとって華大陸や常盤を窺う重要拠点であった。

美城上聖は,

「マナンは,南洋の東の端にあって,常盤にも近く,
また理国(リュイト)との中間にある。

イストラが我らの喉元に突きつけた刃のようなものである。

彼の地がイストラの手を離れ,マナンの島民の手に戻らない限り,
引き続き常盤も南洋もイストラに狙われ続けることになる。」

との懸念を示し,マナン遠征を企図し,調略がすすめられた。

現地の首長たちが反乱を計画したが,その背後には無論,
日生国の存在があった。

百三十二世19年(1608),日生国はマナンへ大艦隊を派遣する。

上聖自身も85歳という高齢を押して,清泉神聖とともに,
マナンに最も近い日生領の島 打音島(うちねとう)に入り,指揮を採った。

もちろん,上聖の出陣に反対の声は大きかったが,上聖は,

「これは,私の代でなすべきことの総仕上げである。」

として,固い決意の下,打音島に入ったのである。

イストラ側も支配下での反乱の動きを察知して,首謀者を捕縛・処刑して対処したが,
全ての反乱計画を潰すことはできなかった。

マナン諸島各地で現地民の反乱が発生すると,
呼応して,日生軍がイストラ側に攻撃を仕掛けた。

日生軍の沢渡周の艦隊は,イストラ艦隊を打ち破り,
内外の攻撃にさらされたイストラ側は混乱を来した。

ついに日生軍は,イストラのマナン経営の拠点であるカヤの街を攻略した。

その後も日生軍は,イストラ側の反攻を退けて,
マナン全土から,イストラ勢力を駆逐した。

日生国は,カヤの郊外に列強に対処するための軍事拠点と,
交易のための商館を築いた他は,マナン各地を現地首長の統治に任せた。




傘寿

混乱のない,代替わり――

清泉神聖は,美城上聖の後見を受けながらとはいえ,
見事に政権を引き継いだ。

新神聖は,よく周囲に耳を傾けるひとであり,
美城神聖時代からの賢人・賢将をよく用いた。

また,一時は美城神聖の太子であった義兄 長岡聖君との関係も良好であり,
綾朝が代替わりの際に二度も大乱を起こしたのとは対照的であった。

綾朝の目論見は完全にあてが外れたと言える。

そして――

美城上聖が傘寿を迎えた年,
日生国の百三十二世14年・綾朝の建安36年(1603),
綾朝を大災害が襲った。

建安の畿内大地震である。

かつて,広奈国順正帝のころに大地震が畿内を襲ったが,
それを上回る未曾有の被害が出たという。

順正の大地震の前は,前各務国の時代,福延9年(1227)にも
畿内で大地震が起こっているが,
ほぼ200年周期で畿内は大地震に見舞われていることがわかる。

甚大な被害は,畿内のみならず,湾陰・湾陽,首内にも及んだ。

また,綾朝では,地震で左大臣 天堂成彦が重傷を負ったにも関わらず,
復興のために激務にあたって体調を悪化させ薨去してしまった。

日生国も被害と無縁ではなかった。

安宿諸島には津波が押し寄せ,多くの人家が流出し,
死傷者も相当の数に上ったという。

とはいえ,日生国本土は,綾朝に比べれば被害は軽かった。

上聖も清泉神聖も,

「直ちに綾朝へ救援を送るべきである。」

として,多くの人員を派遣し,物資を送った。

綾朝では,「上下歓呼して」日生国からの支援を迎えたと言われている。


世代交代

南洋から列強の勢力が去った頃,
日生国には世代交代の波が押し寄せ始めていた。

百三十一世48年(1587)には,安宿総督を務めていた御月高任が薨去,
翌々年(1589)には,原政人も薨去した。

神聖は,長岡聖君を御月高任の後任に,
姫村七緒(きむら・ななお)を原政人の後任とした。

原政人の薨去から数か月,
神聖自らも病を得,ついには意識が混濁するなど,極めて危険な状態となる。

にわかに,日生国全体が緊迫した。

日生国は今や全盛期を迎えていたが,
それは他でもなく美城神聖が現出したものである。

その神聖に万一のことが起これば,再び日生国に危難が訪れかねない。

「綾朝はどう出るであろうか……」

諸侯・諸将は,脳裏に浮かぶ「万一」を必死に打ち消しながら,
神聖の回復を祈る。

結論から言えば,幸いなことにその祈りは通じた。

神聖は,明確な意識を取り戻し,
徐々にではあったが,健康を取り戻した。

この頃,齢九十を越えてなお健在であった後藤信暁は,

「この世に暇乞いをするならば私の方が先でなくてはなりますまい。

よくぞお戻りくだされました。」

と神聖の回復を喜んだ。

日生国全体も祝賀の熱気に包まれた。

しかし,その熱気も覚めやらぬ中,神聖は,

「総攬に就いて五十年を越え,私も今や,齢六十七を迎えた。

次代の体制を今から作っておかなくてはならない。

私が健康な内に,次の代に国を引き継いでおきたい。」

として,神聖譲位と総攬引退の意思を示した。

周囲には引き止める声が非常に多かったが,神聖の決意は堅かった。

百三十一世51年(1590),神聖は,聖太子である敬慈(たかちか)聖君に神聖位を譲った。

新神聖は,清泉神聖(さやいずみのしんせい)と称される。

また,美城神聖は,総攬からも引退し,
元老院は,清泉神聖を百三十二世総攬に選出した。

神聖は譲位により,上聖と称されるようになる。

美城神聖から清泉神聖への緩やかな世代交代が,
その後の日生国と綾朝の関係を決定づける一因となった。


協和万邦

日生国は繁栄を謳歌していた。

美城神聖の総攬就任時から比べて,
人口も版図も4倍に膨れ上がり,
交易圏も日東洋全域,南洋・中洋にまで及んだ。

美城神聖の時代に入って経済は常に上昇基調で,
町人層も豊かになった。

神聖は,洋の東西・国の内外を問わず,
多くの優秀な学者・文化人を招き優遇した。

洋学も従来からの学問も盛んとなり,身分問わず広く門戸を開いた
学問所は拡大し,大学として整備される。

百三十一世36年(1575)には,美城に,同40年(1579)には,伯台・久礼の
学問所が西洋・東洋双方の学問を取り入れた大学としてその歩みが始まった。

さらに,伯台・久礼に大学が設けられた年,
美城には洋式の天文台もおかれている。

ところで,この時代には町人文化も大いに華やいだ。

経済的に町人層が豊かになったことが背景である。

順風満帆であるが,

神聖は,

「私の目指すところは,万邦が協和することである。

未だ万邦が協和するには程遠く,隣国綾朝ですら,
我が国への野心を完全には捨てていない。」

と述べた。

「万邦が協和する。」それは,大陸の古典にある

「百姓昭明,協和万邦」という言葉から来ている。

百姓昭明とは,人々がその徳を明らかにするということであり,
それによって,協和万邦,つまりあらゆる国々が和親して泰平となるということである。

そのために,神聖は,善政を心がけ,学問を盛んにし,
国中の人々が,各々の徳を明らかに出来るように心がけたのであった。

とはいえ,戦乱の世は,理想通りにはいかず,
国内の動乱が収まっても隣国や列強との争いは収まっていなかった。

綾朝の日生国への野心――

実際,綾朝側は,
日生国の代替わりの隙を狙おうと考えていた。

綾朝の建安帝は,即位時13歳でありその時,美城神聖は46歳,
建安帝が壮年を迎える頃,日生国は代替わりを迎えるであろう。

その頃には,建安帝の政権は,充分に統治経験を積んだ成熟した政権となり,
他方,日生国は,統治未経験の新政権となっている。

綾朝側としては,日生国を狙う絶好の機会となり得る。

美城神聖にとって,次代への代替わりを,
いかに混乱なく成し遂げるかが懸案となっていた。


南洋の擾乱

南洋大陸の開拓,リュイトや中洋(東南アリア・サラス方面)諸国との通交の進展によって,
日生国の勢力圏は拡大し,西洋列強との摩擦が次第に大きくなっていく。

中でも,イストラ・ペルトナを南洋から追い払いつつあった,
リーフランドとの対決は不可避になりつつあった。

リーフランドは,ソロ王国の西に隣り合うマドゥラ王国内に,
都市 ニューローランドを建設,ここを拠点に勢力を拡大,香料貿易独占を目指して,
南洋に勢力を張っていたペルトナを追い払った。

さらに,綏盤島をも占領して対常盤貿易の独占をも目論んだ。

また,日生国が海外進出において消極策を採るように誘導しようと企図する。

ところが,日生国は,リーフランドの意図には乗らず,南洋への影響力を拡大し始めたのである。

リーフランドは,マナ王国,ソロ王国,マドゥラ王国三国の覇権争いを扇動し、
さらに各国内部の主流派と非主流派の抗争をも煽った。

マナ王国で内乱が発生し,ソロ王国がこれに介入すると、
今度はマドゥラ王国が,ソロ王国を狙って攻撃を加え,三つ巴の戦いとなる。

リーフランドはその影で暗躍し,漁夫の利を得始める。

美城神聖は,

「南洋は,理国(リュイト)と新州(南洋大陸)と我が国のちょうど真ん中にある。

ここを葉国(リーフランド)に抑えられると理国や新州との連携が絶たれ,それぞれに孤立することになる。」

と懸念した。

環日東洋諸国の和親による西洋列強への対抗,それが神聖の構想であり,
その完成のためにも,南洋諸国の安定は絶対条件であった。

美城神聖は,その絶対条件である南洋安定のために,
沢渡玲・草野司に軍を与え南洋へ向かわせた。

また,三国の抗争がリーフランドの勢力拡大の原動力となっていることから,
三国間の抗争の調停を内密に推し進める。

かつて,日生国はマナ王国の現国王カレア王の即位を助けたが,
その際に,マナ王国の主流派,非主流派双方との間に人脈が形成されていた。

ソロ王国でも,草野司などは,国王を始めとして多くの有力者と懇意であった。

さらに,マドゥラ王国内でも,従前より親日生派の形成を急ぐなど調略が進められていた。

百三十一世42年(1581)には,マナ王国で,
さらに翌43年(1582)には,相次いで日生軍はリーフランド人を打ち破り,
さらに,百三十一世44年(1583)には、リーフランドの拠点ニューローランドをも陥落させた。

綏盤島のリーフランド軍は孤立無援となり,日生軍の侵攻の前に敗北する。

南洋からリーフランドは去ったのである。

さて,列強の内,レーヴェスマルクは,日生国が南洋で勢力盛んとなった状況を見て、
サラス方面の経営を重視し,南洋進出を諦めた。