生誕

後に建康帝となる輝成皇子は,
綾朝瑞穂国の元光元年(1504),都 津京(しんきょう)で誕生した。

元光帝が綾朝瑞穂国の皇帝として即位し,
瑞穂国再興を宣言したまさにその年である。

父は皇太子であり,母はその正妃である敦子であった。

敦子は,英成王の父 理成(さとなり)王の弟 成知(なりとし)王の曾孫である。

元光帝は,孫である輝成皇子に期待し随分と可愛がっていたという。

筋目も最も正しく,利発な皇子を
気に入っていたようであった。

ところが,輝成皇子を可愛がった元光帝は,元光8年(1511)に崩御した。

輝成皇子の父が即位し,建文の元号が立てられた。

これにより新帝は建文帝と称されることとなる。

輝成皇子も皇太子に立てられた。8歳であった。

太子は早くから初陣を望んだ。

自身を可愛がってくれた元光帝に対する強い憧れからである。

将兵と共にあり,戦陣に立ち,国を切り拓いた元光帝の姿を
皇太子は,追いかけようとしていた。

建文5年(1515),綾朝には,相次いで危難が訪れる。

まず初春には,山奈広康が川手地方へ侵入した。

太子は,出陣を望んだが建文帝は許可しなかった。

そして冬には,安達政権が10万の軍で侵攻してきた。

皇太子は,

「正に,国家危急存亡の秋です。

私に救援にいかせてください。」

とまたも出陣を望んだが,建文帝は,これも却下した。

この時は,三傑の一人 里見泰之が,安達勢を打ち破って
綾朝は危難を切り抜けた。

明けて建文6年(1516),

湯朝の山奈広康がまたも綾朝領であった川手地方へ侵攻してきた。

広康は前年の侵攻の時には,嶺外地方の天堂氏が,
湯朝の都 湯来を狙って兵を動かしたため,
すぐに川手地方から引き上げ,天堂氏攻撃へととって返した。

しかし,今度は,その天堂氏を大破して,後背地の安全を確保した上で,
万全の態勢を以って川手地方へ進出してきたのである。

山奈広康は,陽動作戦によって川手地方の要地 真砂湊の綾朝軍を壊滅させると,
さらに北上して,川手を狙った。

皇太子は,

「今度こそ,私に出陣の許可をください。」

と志願した。ついに建文帝は折れ,太子に出陣を許した。

初陣の皇太子に,建文帝は,三傑の一人である早智秋と智将 上村晴世を補佐につけた。

綾朝側も万全の態勢である。

皇太子の出陣によって,軍の士気は高まった。

山奈広康は,皇太子が早智秋・上村晴世とともに出陣したことを聞くと,
川手の攻略を諦めて真砂湊の防備を固めて引き上げる。

太子にとっては,拍子抜けするような結果となってしまった。




近代世界の父

百三十二世21年(1610)の末ころより,美城上聖は,食が細り,
眠ることが多くなり始める。

明けて百三十二世22年(1611)には,
一層,食が細り,眠って過ごす時間もさらに長くなっていった。

明らかに老衰が進行していた。

上聖は,

「自分は,徳が少なく,何も成さず,未だ『百姓昭明,協和万邦』には程遠い。

私が亡くなったら,葬儀は簡素にして,

皆,平生の通りに働き,備えを怠ってはならない。」

と遺言した。

盛大な葬儀も喪に服することすらもいらないと言ったのである。

百三十二世22年(1611),3月始め,美城において上聖はついに徂落した。

88歳であった。

日生国中,老若男女が上聖の徂落を大いに悼んだ。

上聖の徂落が伝わると,
上聖の時代に救援を受けた南洋の諸国やリュイトなど環日東洋諸国,
また,友好国であったレーヴェスマルクなど海外からも哀悼の意が表された。

日生国は今や,現代まで続く全盛期に入っていた。

上聖の長寿と緩やかな代替わり,綾朝での大地震によって,
綾朝は,日生国攻撃の企図を捨てざるをえない状況となった。

その後,幾度か綾朝には日生国への野心を見せる権力者が現れたが,
現実に両国の抗争に発展する事例は存在しなかった。

常盤にはついに泰平が訪れた。

さらに日生国は,列強を東洋から退けて,独自の交易圏を形成した。

現代に至るまで日東洋を取り巻く諸国は,
日生国を軸として連携し,列強の進出を退け続けた。

上聖は,後世,「近代世界の父」と評されることとなる。

近代以降の世界情勢は,美城上聖が構想した世界の姿を後追いするものと言って良く,
上聖の先見の明は明らかであった。

自身の遺言に見られる「何も成さず」の言葉とは裏腹に,
正に「近代世界の父」と言うに相応しい業績をのこしたのである。