中世の常盤

さて,諏訪王権に首州を逐われ,南海諸島に移り住んだ人々は,
南海諸島各地で,クニを建てた。
そのうち,安鳥(あとり)諸島のヒナセ政権は,
前1世紀中ごろには早くも安鳥全域を制する。

ヒナセ政権はその後,
ほぼ一世紀を費やして,南海諸島全域にその勢力を及ぼすようになった。

さらに,3世紀末,首州・亜州を支配する瑞穂が弱体化すると,
海陽・亜南・海西・海東などに進出して勢力を扶植し,
一大勢力となっていく。


やがて4世紀初頭の瑞穂の衰退をきっかけに,
首州では各地の有力豪族が自立するようになる。

瑞穂帝室の傍流は,亜州の長門半島を本拠として帝室の再興を期する。
これを俗に「長門政権」または,「長門国」と呼ぶ。

しかし長門政権は,ついに首州を回復することはできず,
足下の亜州内でも徐々に有力豪族の独立をゆるし,
8世紀には滅亡した。

首州では,4世紀には,
来海(くるみ)国が出て,首州全域を制圧,
さらに,大陸の制度を取り入れて,律令体制を整備していく。

来海国は,清峰州など,海外にも影響力を及ぼし,
また,常盤全土の統一を目指して
たびたび長門政権をも攻撃したが,
亜州への進出を果たすことができないまま,
長門政権よりも早く,7世紀には滅んでしまった。


首州の覇者は,
来海国の後には,
須藤国になる。

須藤国の下では,律令体制は緩やかに,
しかしながら大きく変化してゆき,
貴族制の時代を迎える。

10世紀に須藤国にかわって首州を統一した生原(きはら)国,
12世紀にその生原国にとって変わった各務(かがみ)国はともに,
封建的分権社会を基盤とする国家であった。

他方,亜州では,
長門政権の崩壊後には,統一勢力が現れず,
諸国分立が続く。

亜内地方には,
志賀国が興り10世紀まで続く。
志賀国にとってかわったのは,
川内(せんだい)国で,これは,13世紀まで続いた。

亜南地方には,トヨハラ政権が興ったが,
これは,ヒナセ政権の一部が建てた国である。
トヨハラ政権は,本国であるヒナセと激しく抗争したが,
そのために勢力を弱め,5世紀末には滅亡した。

トヨハラの故地は,6世紀の始めころ浜名国が制したが,
この国は,元々,ヒナセと組んでトヨハラを攻撃した国であり,
トヨハラの滅亡後,ヒナセとともに志賀国に対抗するようになる。


南海を発祥とするヒナセは,瑞穂衰退以降,
海東・海西・南海にまたがる海洋帝国に成長した。

ところが,5世紀に入るとヒナセは3つの勢力に分裂する。
南海の「ナナセ」,
海東の「ヒナセ」,
亜南の「トヨハラ」がそれである。

ナナセは,内紛により最も早く5世紀の内に滅び,
トヨハラは前述のごとく,
ヒナセと浜名両勢力の挾撃に遭ってこれも滅んだ。

これにより,三つのヒナセは,一つのヒナセとなったが,
かつての一大海洋帝国の面影はもはやなく,
ヒナセの版図は,海東地方のみに縮小した。

トヨハラの旧版図には浜名国があり,
ナナセの旧版図には,
ヒナセに従わない諸豪族が分立していたのである。

ヒナセは,かつて諏訪,瑞穂という強大な「帝王」に苦しめられた経緯から,
「帝王アレルギー」とでも言うべき性格をもつようになっており,
有力者の選挙によって首長を決定する仕組みを選んでいた。

この首長はやがて,「総攬(そうらん)」と呼ばれるようになり,
クニの名である「ヒナセ」にも「日生」という文字を宛てるようになる。

さらに,大陸の文物を重視する風潮が盛んになった5世紀ころには,
「日生」という国号を音読みで「にっしょう」と読むようになった。

日生国は,首州・亜州で数多の国が興亡するのを尻目に,
連綿と存続し続けていく。


実は,今ひとつ連綿と存続し続けていく存在があった。

瑞穂帝室の血脈である。
古代瑞穂王朝が消滅した後も,
帝室の末裔は各地で,地域の有力者として遺り続けていた。

そして,唯一,瑞穂帝室の男系の末裔だけが
「皇帝」
の号を称することが認められていた。

国家の長を「皇帝」を称し,
自国を「帝国」と称するのは,
瑞穂帝室の男系の子孫によって建てられた国である。

無論,中には明らかな詐称も存在しており,
また,詐称とは断定できないまでも,
古代瑞穂とは関係性が詳らかでない国もあった。