失意

順正帝は,密に三度目の亜州遠征を考えていた。
しかし,広奈国内はそれどころではなくなる。

順正16年(1427)には,都 広京(こうけい)のある首北
および首内地方で疫病が大流行した。

一村,丸ごと,消滅する事態も各地で見られたという有様であった。

帝室もその被害を免れなかった。
皇后・靖子(やすこ)と第一皇女が病にたおれ,逝去したのである。

そのはやり病がようやく鎮まった順正18年(1429),
今度は大地震が帝都を襲った。

宮中でも,諸宮殿が倒壊するなど甚大な被害を出したのだが,
その際,柱の下敷きとなった第二皇子と第二皇女が亡くなってしまう。

順正帝は,おおいに衝撃を受けたが,
それでもまだ悲劇は終わらなかった。

左大臣 花園詮郷(はなぞの・あきさと)が薨去したのである。

詮郷は,順正帝の父 天祥帝が最も重んじていた臣である。

父に疎んじられていた順正帝からは,
父を見返してやろうという意識がことあるごとに,にじんで見えたという。

詮郷に忠勤を尽くされることで,
順正帝は,間接的に亡き父を見返そうとしていた節がある。

その詮郷までも失ったことで,
目標を喪失したような失望を覚えたとしても不思議はない。

帝自身は,覇気を失っているようであった。


順正十年代の後半は,
疫病・地震のみならず,
洪水や旱害なども毎年のように広奈国各地を襲っていた。

ここにいたり順正帝は,内治重視へと方針転換し,
国内に恩徳を施す政策を打ち出すようになった。

しかしこの方針転換は,
順正帝が臣下たちに言われるがままに行ったものであった。

事実,災害復旧が一段落した後も,
亜州への遠征を口にすることはなかった。

自身の悲願たる常盤統一にすら興味を失い始めた順正帝は,
疲れきっていたと言える。


しかしやがて,失意の順正帝を,
新たに入内して来た一人の女官がなぐさめていくことになる。
名を風子(かざこ)といった。
中流貴族 藤堂氏出身の娘である。