亜州遠征再開

詮文皇子が加冠を果たした順正32年(1443),すでに朝廷は詮文派で固められていた。

順正帝は思う。
「今の状況ならば,朕が都を空けても,
留守中に太子が何かたくらむことはあるまい。
仮にたくらんでも,それが成功することはあるまい。」と。

しかし,それでも一抹の不安を感じた順正帝は
京極孝久の助言により,詮文派の諸侯ばかりを集めた一軍を太子に与えて,
遠征軍に参加させ,水奈府の行宮に留めることとした。

ついに,広奈国による亜州遠征は再開された。

広奈軍は,今回は,名和国の亜北地方を攻撃した。
亜北地方は,常盤最強の水上戦力を有する日生国の版図からは遠い。

また,これまでの失敗を教訓として,広奈国は水軍を大幅に強化してもいた。

名和国は,緖土国,日生国に救援を仰いだ。

しかし,広奈軍は,名和水軍を電撃的な速度で破ることに成功し,
続く上陸戦でも,数を頼みに名和国の防衛網を大破した。

勢いに乗る広奈軍は,
名和国を救援しにきた緖土国の陸上部隊をも壊滅させた。

広奈軍は,南下して名和国の要衝,泉へむかった。
さらに,一軍を,緖土国の平定に指し向ける。

緖土国の都 十丘(とおか)は,広奈軍によって包囲された。
緖土国王 知繁(ともしげ)は,かろうじて十丘から脱出,
伊住(いすみ)という小都市に逃げ込むことに成功したが,
もはやその命運は風前の灯といってよかった。

名和国は,泉の手前,渡瀬(わたせ)で広奈軍を迎撃したが,
あえなく,壊滅の憂き目に遭う。

国王である成徳(せいとく)王は,必死に戦力をかき集めて
泉へ送り込んだ。

「これが王としての最後の仕事になるであろう。」と嘆息した成徳王は,
もはや状況を絶望視していたといってよい。


名和・緖土両国救援に燃える日生国の陸上部隊が泉に現れたのは,
そんな時であった。


数で劣るにも関わらず,日生軍は
広奈軍に真正面から突撃を加えた。
思わぬ展開に,広奈軍は大混乱に陥った。

名和軍は,その様子を見るとたちまち息を吹き返し,
混乱中の広奈軍へと襲いかかった。

泉へ進んだ広奈軍は大敗を喫してしまったのである。
これを受けて伊住を包囲していた広奈軍も完全に浮き足立ち,

日・名両軍が接近中であるとの報に接すると,
ついに先に占領した十丘にまで引き返してしまう。

そして広奈軍には,また新たな危難が襲いかかる。
広奈の占領下にある緖土国の民が蜂起をはじめ,
各所で広奈軍に襲いかかるようになっていたのである。

もはや,この遠征の継続は不可能といってよかった。
順正帝は,またも亜州遠征軍に総引き上げの勅命を下すことになってしまったのである。