順正名島の乱

太子は,廃されなかった。

順正帝が崩じたためである。

正確には,「弑殺」というべきだろう。

順正帝を討ったのは,
左大将にして名門諸侯でもある

名島詮時(なじま・あきとき)であった。

詮時は,あろうことか,詮文派の諸侯であった。


名島家は,皇帝家から分かれ出た名門中の名門である。
しかしその家柄は,同じく皇帝家から分かれた名門の一条家よりは下であった。

名島詮時は,当初,この序列を崩すことは考えていなかった。
しかし,風子が詮文皇子を産んだ頃から状況が変わり始める。

順正帝が,一条家の血を引く太子よりも,
詮文皇子の方を重んじるようになったからである。

一条家は当然それを認めず,順正帝と対立するようになっていく。
やがて詮時は,考えはじめる。

「ここで一条家と一緒に太子を擁護すれば,名島家も没落する。
だが,詮文皇子を推せば,没落する一条家に替わって今度は,
名島家こそが帝国最高の名門になる。」と。

詮時の中で野心が芽生えた瞬間であった。
確かに一条家の没落により,
相対的に名島家は第一の名門となり始めていた。

ところが,それと同時に,
風子の実家である藤堂家も著しい台頭を見せるようになる。

家柄にこだわる詮時にしてみれば,これは面白くなかったであろう。

「藤堂家などは,かろうじて貴族の体裁を保っていたに過ぎない,
三流の家だったではないか。」
と。


こうした詮時の憤懣が頂点に達したのが,
四度目の亜州遠征の時であった。

詮時は,国家財政の逼迫と帝室に対する民心の離反を憂えていたから,
もとより,この遠征には反対であった。

しかし藤堂一族は,帝の機嫌をとるためだけに積極的に亜州遠征を支持したと言われる。

結局,順正帝は,藤堂一族の意見を採用した。
帝は,四度目の遠征を敢行し,そして,惨敗した。

この時,詮時はうちわの席でつい,
藤堂氏を重用する順正帝を批判してしまったのであるが,

それが,いつの間にか帝の耳に届いてしまっていた。

ついに,順正帝は詮時を疎んじるようになってしまった。

それにもかかわらず,
帝は詮時をそのまま近衛軍指揮官たる左大将の地位に留めていた。

順正帝は,油断しきっていたと言えるが,
このことが,結局は帝の命取りとなるのである。