名島の乱

始元帝の三男 詮智(あきとも)を始祖とする一条家は,
帝国第一の名門であり,順正帝の治世までに,
3代に渡る皇后と5人の左大臣を輩出するほどの権勢を誇った。

順正帝の代にあっても,
当主 智嘉(ともよし)は右大臣の要職にあり,
当主の妹 靖子は皇后,
その靖子が産んだ詮誠(あきまさ)皇子は皇太子という状況であった。

まさに一条家の勢威は,極致に達していたと言ってよい。


しかし,靖子の逝去後,藤堂家の風子がその後釜に据えられて詮文皇子を産んだあたりから,
一条家の勢威は急速に翳り始めた。

順正帝が,詮文皇子を溺愛して,
皇太子と太子派の諸侯を次第に疎んじるようになったためである。

太子派の盟主たる一条家は,
凋落ぶりも激しく朝廷での発言力を全く失うこととなってしまった。

そうした危急存亡の中にあった順正26年(1437),
一条家は当主 智嘉を病で失ってしまう。

しかも智嘉の後を継いだ彼の嫡男 智綱は,
まだ17歳の若者に過ぎなかった。

智綱が家督を相続した頃,
太子派の諸侯は,順正帝から疎まれ,
朝廷の職からは遠ざけられるようになっていたから,
智綱も花岡権帥(准長官)といった地方の職に就任することとなったのであった。

こうした中で起こったのが名島詮時の乱である。