智綱入京

順正帝を弑した名島詮時は,
皇帝を称するようになってから四か月後にはもう,
詮文皇子を奉じる京極軍に討たれていた。

京極氏は,畿内全域を制圧,
詮文皇子を皇帝の位につけたのであった。

帝位についた詮文は,
元号をそれまでの「順正」から「更新」(こうしん)へと改めた。

そのため詮文は,元号をとって特に更新帝と呼ばれる。


無論,太子 詮誠も登極し,「宣昭」(せんしょう)の元号を建てた。
詮誠は宣昭帝と呼ばれる。


智綱が,その宣昭帝を奉じて入京の軍を起こしたのは,宣昭3年(1447)のことである。

入京軍には,一条氏の盟友 沢渡嘉(さわたり・よしみ)も自軍を率いて加わった。
両氏の連合軍,総勢4万。

一方,更新帝を奉じる京極氏らの諸侯は,
一条・沢渡連合軍が動いたことを知ると,
広京の都を出てその近郊 松下に布陣する。
その数,3万。

そして都の留守は,
平泉(ひらいずみ)氏の軍・1万が預かることとなったのである。

ここでも智綱は,謀略を用いた。

都の留守を預かる平泉氏を,
味方側へ寝返らせたのである。

実は平泉氏は,
更新帝のもとで専権を振るう京極氏を恨んでいた。

智綱は,そこにつけ込んで,
平泉氏を味方側に誘ったのであった。

平泉氏は,内大臣の位を約束されると,
たちまち一条・沢渡方に転向,更新帝を襲撃した。

更新帝は自害に至る。


松下にいた京極氏らの軍3万は,
一条・沢渡連合軍と平泉氏の軍に挟み撃ちされる格好となり大破されてしまった。

京極氏の当主 孝久も,気がつけば周囲は敵兵ばかりという状況に陥り,
あえなく討ちとられることとなる。

一条・沢渡連合軍は,
宣昭帝を奉じて悠々と入京を果たした。

智綱は,この功により左大臣に任命された。

名島詮時によって,とだえかけた帝室は復興され,
広奈国はその命脈を保つことになったのである。

広奈国の帝位は,再び統一されたが,
しかし,諸侯同士の争いは収まらなかった。

皇帝家にかつてのような実力が,もはやなかったからである。

かつて皇帝家に絶大な実力が備わっていた頃には,
たとえ諸侯間で揉め事が起こっても,それを皇帝が調停できた。

ところが,今や時代は変わった。
仮に,諸侯間の争いを皇帝が調停したところで,
諸侯たちが従わなければそれまでである。

従わない諸侯を討伐できるだけの軍事力が,
皇帝家にはすでにない。

こうして諸侯たちは,領国経営を発展させるために,
他の諸侯の領国を侵奪するようになっていく。


海西地方では,今原(いまばら)・北・須和の三家が三つ巴の抗争を繰り返しており,
首内(しゅだい)地方では河本家が北氏や香上(こうがみ)氏の領国へ侵攻を繰り返していた。

また,河首(かしゅ)地方でも,平瀬・秦(はた)両家の対立を軸とした
激しい争いが巻き起こった。

この乱世を終結させるためには,
再び絶大な力を持った者が現れ出て,
諸侯の争いを捌く必要がある。

現時点でそれに最も近いのは,
他でもなく皇帝を擁する一条智綱,その人であった。