西国での争闘

智綱はまず,大貫家の内訌に干渉した。

大貫家は元来,一条家と敵対していた。
しかし,家中が持高派と持経派に分裂してからは,状況が変わった。

持高は,そのまま一条家を敵視し続けて花岡同盟には不参加であったが,
持経は,兄に対抗するために智綱に接近,その縁で同盟に加わったのである。

宣昭帝のために広奈国の統一を回復する気でいる智綱は,
大貫家を花岡同盟派の持経のもとに統合しようと考えたのである。

畿内周辺の情勢が安定したことを見て取った智綱は,
重臣 吉野綱広(よしの・つなひろ)を将とする2万の軍を畿内の守備に残して花岡へと帰還した。

無論,大貫持高を攻めるためである。
この動きを知った持高は,
単独で一条・持経の連合に抗するのは無謀と考え,
宣昭5年(1449),大神(おおみわ)氏と同盟したのであった。

大神家当主 朝高(ともたか)は,

「世人は智綱を仁君と讃えるが,それは智綱の猿芝居がうまいだけのこと。

本当の智綱は,偽りの多い人物であり,先帝には長幼の序を守って太子を重んじるべきと諫言しながら,
大貫の家に対してはその逆を勧めている。

やっていることは,まるででたらめと言う他はない。

こういう人間に好き勝手を許していては,信義は廃れてしまう。
信義を正すためにも我が大神家は,喜んで持高殿のお力となりますぞ。」

と大貫家の使者に語ったのであった。

宣昭6年(1450),一条・持経連合軍と大神・持高連合軍は,
折口の地で羽志摩(はしま)川を挟んで会戦するに至る。

だが大神・持高連合軍の連携は,芳しいものとは言えなかった。
はやる大貫持高は,智綱の出した囮の渡河部隊をそれとも知らず攻撃し,
気がついたときには,別の地点から渡河して来ていた一条軍本体に包囲されるという状況に陥ってしまう。

結果,大神・持高連合軍全体も,やぶれることとなった。
折口の地は,一条軍の占めるところとなったのである。

これは,大貫持高にとっては死命を制されたも同然の状況であった。
大神氏との連絡が遮断されてしまったからである。

果たして翌年にはもう,
持高は国を失って大神領へ逃亡する羽目になってしまった。

大貫当主には,智綱の後援を受けて持経がつくこととなるのである。