宣昭帝崩御

大神朝高は,日野氏は頼りにならないと見たのか,独自の手を打った。

宣昭10年(1454),朝高は,
大貫領の小領主を扇動して大神氏に内応させるとともに,
先の大貫当主 持高に兵を貸し与えて大貫領へと送り込んだのである。
無論,智綱と連合している現大貫当主 持経を排除するためである。

智綱は,持経からの救援要請を受けると,電光石火,自ら1万の軍を率いて大貫領へ入った。

一条・持経軍は,たちまち持高の軍勢を粉砕,持高をも敗死せしめる。

これにより持高の動きに合わせて大貫領へ攻め寄せていた大神軍は,
好機は去ったと見て帰還していった。

しかしながら「一難さってまた一難」とはよく言ったもので,今度は,都で大事が起こった。

宣昭11年(1455),宣昭帝が崩御したのである。

帝の後継者となった新帝 興徳(こうとく)帝は,賢明とは言い難かった。

都を任せている吉野綱広から,新帝の様子を伝えられた智綱は愕然とした。

何と新帝は,先帝の喪中にあるにもかかわらず,
日夜,後宮に入り浸り酒色を過ごしているというのである。

智綱は,入京するとすぐに帝を諫めた。
しかし,帝は表面で智綱の諫言を受け入れたような態度を見せるだけで,
その実,一向に行状を改めなかった。

やがて,智綱は西国への帰還を余儀なくされる。
日野氏が一条氏への雪辱を期して動き始めたからである。

日野氏は,まず隣国の諸侯 堂島氏に一条家の盟友 沢渡氏を攻めさせた。

智綱は,ただちに1万の兵を率いて沢渡氏の救援へと出撃したが,
その一方で,
「堂島の後ろに日野氏がいるのは必定。
余が沢渡殿の救援に向かえば,必ず日野軍は手薄になった我が領国を狙うであろう。」
と予測し,重臣 上村綱晴(かみむら・つなはる)に兵1万を与え,楯岡を守らせた。

果たして日野国親は,堂島氏の沢渡領攻撃に呼応して兵3万をもって楯岡を攻撃してきたのであった。

楯岡を預かる上村綱晴は,伏兵を用いて日野軍の機先を制する。

一方,沢渡領。
堂島軍は,数で劣る沢渡氏を攻めあぐね,
未だに国境の要衝 井口(いのくち)を突破できないでいた。

そんな状況のところへ一条軍がまもなくやってくるという報である。
たまらず堂島の将 氏家貞義(うじいえ・さだよし)は,全軍に撤退を命じた。

智綱は,一両日だけ井口で兵を休息させると,楯岡を救援するためすぐに領国へとって返した。

上村綱晴は,神出鬼没に各所へ打って出ては日野軍を苦しめていた。
智綱率いる一条軍本体が楯岡へ到着したのはそんな中であった。

今ひとつ士気が上がらなかった日野軍は,
智綱率いる一条本軍から夜襲をくらうに至ってついに撤退した。