帝室の混乱

一条家は,帝国内の最大諸侯であり,
その力によって花岡同盟の諸侯を束ねつづけていた。

智綱は西国にあったが,彼の一挙手一投足は,
その実,帝国版図の隅々にまで影響を与えていたと言ってよい。

一条智綱は,まさに乱世の覇者であった。

しかし,智綱がいくら奮闘しようとも,
帝国がかつての勢いを取り戻すことはなかなかに難しいことであった。

当の皇帝家自体に問題があったからである。

時の皇帝 興徳帝は,践阼当初から酒色に溺れるなど,
その行状にはおおいに問題があった。

智綱は,折りに触れて諫言したのだが,まるで効果はない。

しかも,興徳帝は歴史に学ぶということ知らない人であった。

順正帝の御世を再現するかのように,
いやそれ以上に酷いお家騒動の種を蒔いてしまうのである。

帝には即位10余年を経た頃すでに10数名の皇子がいた。

その内,太子に立てられたのは皇后 馥子(ふくこ)との間に生まれた
長皇子 詮宗(あきむね)であった。

しかし,帝はその後,仲子(なかこ)という女官を寵愛するようになり,
彼女が産んだ詮里(あきさと)という皇子を,
あろうことか太子同然に扱うようになってしまった。

だが話は,それだけでは済まない。
帝の寵愛がやがて,如子(ゆきこ),
さらに季子(ときこ)という女官に次々と移っていったからである。

帝は,今度は如子が産んだ詮歳(あきとし)皇子をかわいがり始め,
続いて季子が産んだ詮邦(あきくに)皇子を溺愛した。

結果,女たちは後宮で
「我が子こそを太子に」
とばかりに激しく火花を散らすようになっていく。

もとより帝は,次々と寵愛する女官を変えて,
彼女たちの争いの火に油を注ぐばかりであり,
その争いを収める努力などしなかった。

後宮での激しい争いはやがて,
皇帝家の権威を利用してのし上がろうとする諸侯たちの内にも飛び火する。

諸侯たちは,自分に都合の良い皇子を次の皇帝にするべくさまざまに運動するようになった。

智綱は,
「長幼の序を乱した結果,どのようなことになるかは,よくよくご存知のはずです。
皇子の中にあって太子は,最も尊重されるべき存在です。」
と帝に諫言したが,

これもやはり通じはしなかった。

仕方はない,智綱は将来に備えるべく,
花岡同盟内で太子を支持することを確認,
さらに花岡同盟の結束を固めるために同盟内での政略結婚を促進したのであった。