両日野氏との抗争

智綱は,まず今度こそ完全に大貫残党を滅ぼすことにした。

しかし,大貫残党を攻めれば大神軍が出てくることは明らかである。

そこで智綱は,両日野氏の領国へ攻め込むと見せかけておいて,
突如,軍を反転させ,大貫残党が籠もる岩下を電撃的に包囲した。

興徳17年(1471)のことである。

当時,大神朝高は齢七十という高齢を理由に隠居して
家督を息子 頼高(よりたか)に譲っていたが,
この頼高という人は朝高に似ず,温厚なだけのおひとよしといって良かった。

朝高は,一条軍の動きを知ると
「一条軍の真の狙いは,日野領ではなく大貫残党。」
と頼高に忠告したが,頼高には父の思考が理解できなかった。

しかし,朝高の予見は当たり,
一条軍が,日野領ではなく大貫残党を攻めたと知って,
頼高はおおいに狼狽した。

当然ながら,大神軍の大貫残党救援は,遅れに遅れた。

そんな状態の大神軍が,戦場の岩下に到着したからといって,
何か出来ようはずもなかった。

一条軍の備えは,岩下の大貫残党に対しても,
大神軍に対しても完璧であった。

ついに大貫残党の籠もる岩下では,兵糧が尽きた。

あけて興徳18年(1472),一条軍は,たやすく岩下を攻め破り,
大貫残党を殲滅したのであった。

この間,両日野氏は楯岡に攻撃を仕掛けていた。
日野祥親は,父 国親の轍を踏まず,
持久戦によって楯岡を下すことを考えていた。

両日野軍は,堅い備えを以って楯岡の一条軍と対峙したのであった。

智綱は,大貫残党にとどめをさすと急ぎ楯岡の救援に向かった。
智綱も,祥親も慎重であり一向に両軍の均衡は崩れなかった。

しかし,一条家に意外な援け舟が出された。

花岡同盟の諸侯である河本氏と高山氏が共同で,
蘇我日野氏の領国を窺ったのである。

楯岡の戦場から蘇我日野氏の軍が引き上げた。
日野祥親は,有帆日野氏単独で一条軍と対峙し続けるのは不可能であると判断し,
ゆるゆると引き上げっていった。

一条家の危機は去ったのである。