姫村孝治 香上家との争い

香上家は早速,雪辱に動き出した。

孝治は,白川邦顕を追放してから8か月後には,
早くも1万の香上軍を迎え撃たなくてはならなくなった。

姫村軍は3千,今回も圧倒的に不利であった。
しかし,孝治は戦術でこれを覆してみせた。

香上軍先鋒は,桃熊(ももくま)川を渡ると,
鬱蒼とした草むらを押し分けて猛進し,
前方に見えた姫村軍の囮部隊を粉砕しにかかった。

しばらくして姫村軍囮部隊は敗北。
香上軍先鋒はいよいよ勢いに乗り,後退する姫村軍囮部隊を追いたてる。

このとき,香上軍の後続は,桃熊川を渡り終え,
川岸の草むらを越えようとしたところだった。

瞬間,草むらから姫村軍の伏兵が現れて,
香上軍後続の背後へ向けて猛然と襲いかかる。

同じ頃,香上軍先鋒も
姫村軍囮部隊の左右から突如現れた別の姫村軍伏兵に攻め立てられ始めた。

ここに至って香上軍は,姫村軍によって完全に包囲され大敗を喫したのであった。

以後しばらくの間,姫村家に対する香上家の矛先は鈍ることになった。

香上家は,桃熊川での惨めな敗北によっておおいに威信を失墜させた。
従来は,香上家に従っていた月形(つきがた)湖以西(いわゆる湖西地方)の小領主達は,
途端に香上家と距離をおくようになる。

孝治は,こうした小領主達を次々に取り込んでみせた。
その様子はまさに日の出の勢いといった感があった。

ところが,孝治にとって無視できない大事が起こる。
孝治も参加している花岡同盟の盟主 一条智綱が薨去したのである。

花岡同盟は以後,緩やかに解体していくこととなった。

興徳25年(1479),香上家は,雪辱を狙って,みたび姫村討伐の軍を進発させたのであった。

香上方の総大将は高原邦頼(たかはら・くにより),
兵力は1万である。

迎え撃つ姫村方は,3千。
香上軍は,今度こそ姫村軍を一飲みにしてやろうと媛丘攻撃を開始しようとした。

しかし香上軍はこのとき,すでに姫村軍によって完全に包囲されていた。
実は,姫村軍は四手に分かれていた。

その内,媛丘に籠もっていたのは一隊だけで,
残る三隊は,媛丘近郊の各所に潜んで香上軍が来るのを待ち構えていたのである。

そうとも知らず,香上軍は,姫村軍伏兵の輪の中に布陣してしまったのであった。

戦闘が始まると,香上軍の側面や後方へ姫村軍の伏兵が襲いかかった。
姫村軍が全軍,前方に見える媛丘の中に籠もっているものと思いこんでいた香上軍は,
思いもよらぬ方向からの攻撃に周章狼狽した。

結局,姫村軍は今回もまた,香上軍相手に大勝を博したのであった。
これを機に,香上属下の小領主たちは続々と姫村方に鞍替えを始めるようになる。