姫村孝治 香上主従の離間

今や,湖西の大半は姫村氏の諸領となっていた。

しかしながら,湖西には依然として香上方に属している者も少なくなかった。
その代表とも言えるのが朝妻(あさつま)の領主 青山邦継(あおやま・くにつぐ)であった。

興徳27年(1481),姫村軍は,湖西から香上氏の勢力を駆逐するため,朝妻へと攻め寄せた。

ところが,姫村軍は緒戦で青山邦継に奇襲をくらうと,
以後,戦場で勢い振るわず帰還を余儀なくされてしまった。

姫村軍が朝妻を掌中に収めたのは1年後,邦継が亡くなったのちのことである。

この後,孝治は香上家を弱体化させるために,
ある策を講じた。

香上家重臣 津島邦貴(つしま・くにたか)を,
香上家当主 師邦(もろくに)に殺害させたのである。

師邦は,孝治がばら撒いた流言と偽の書簡に騙されてしまい,
津島邦貴が姫村家と通じていると思い込んだのである。

これを機として香上家は大乱となった。

師邦が殺害した津島邦貴は,
香上家臣団の盟主といっても良い存在だったからである。

香上家臣団は主君 師邦におおいに反発し,
興徳31年(1485),長期に渡る反乱を起こすに至った。

香上家中が大乱となったことを見て取った孝治は,
積極的に軍を動かして,香上属下の諸豪を次々に攻め立てて併呑していった。

2年に及ぶ抗争の後,
香上師邦とその家臣団はようやく和睦にこぎつけたが,
湖西地方はすでに姫村氏の制するところとなっていたのであった。

天啓2年(1487)師邦は,失地回復を狙って湖西へ軍を進めようとしたが,
その軍は月形湖上で姫村水軍に撃破され,あえなく霧散することとなる。

このころ,中央で新たな動きがあった。
事実上解体していた花岡同盟が今原具行(いまばら・ともゆき)の手によって復興されたのである。

しかし具行は結局,本領で美好氏との闘争を抱えるようになったため,
中央での勢力確立には消極的にならざるを得なかった。

そのため,花岡同盟が智綱時代ほど力を持つことはなかった。
それでも,花岡同盟の枠組みは,
香上氏と争う姫村氏にとっては大きな救いとなっていた。

花岡同盟の諸侯 河本家が,
同盟に抵抗する香上家の打倒を積極的に狙っていたからである。