姫村家の躍進

湖西を制した孝治は,続いて湖南地方へ進出するきっかけを得た。

天啓3年(1488),湖南の山村家で内訌が起こり,
その結果,一門の実延(さねのぶ)に追放された山村家当主 賢実(かたざね)が,
当主の座を奪還すべく姫村家を頼ってきたのであった。

孝治は,賢実を支援して実延と戦ったが,
実延は南条氏を盟主とする海陽地方の諸侯連合を後ろ盾にして孝治・賢実連合に対抗した。

孝治は,駅家(えきや)の戦いで海陽諸侯軍をかろうじて打ち破り,
賢実を山村当主として復帰させることに成功した。

だが,それも結局一時のことに過ぎなかった。
翌天啓4年(1489),雪辱を誓う海陽軍が電撃的に賢実を山村家本拠 中宮(なかのみや)から追い出したからである。

賢実は,再び孝治を頼って湖西へと落ち延びてきた。

香上家は当然,このような状況を姫村家打倒の好機と見て取った。
ここに至り,姫村家は北の香上と南の海陽諸侯から挟み撃ちを受ける格好となった。

しかし,孝治は
「香上師邦は,河本との決戦で手一杯。
海陽軍と組んで我が領土を襲うにしても積極的には動かないだろう。」と考え,
専ら狙いを海陽軍のみに絞った。

案の定,香上家が姫村領を窺おうとすると,
河本家が香上家を窺うという状況がうまれ,香上軍と海陽軍の連携は思うに任せなかった。

孝治は,香上軍に対する防備を園生治駿(そのう・はるとし)に任せ,
自身は海陽軍に全力を傾注した。

天啓5年(1490),奥田原(おくだはら)の戦いで海陽軍を大破した姫村軍は,
そのまま山村家本拠 中宮を奪い返し,
今度こそ賢実を山村家当主に返り咲かせることに成功した。

こののち天啓7年(1492)には,姫村属下の草津氏が香上・海陽連合に滅ぼされるという事態が生じるが,
孝治は,海陽諸侯の同盟を離間策によって分断させることで対抗した。

以降,海陽軍は姫村領へは侵攻してこなくなる。
そこで孝治は,今度は香上氏に全力を傾注,天啓8年(1493)には,湖南全域を制圧するに至った。

ところが湖南平定戦から帰還した直後から,
孝治は体調を崩すようになり,
翌天啓9年(1494),本拠 媛丘で波乱に満ちたその生涯を閉じることになった。

けれども,これで姫村家の勢力が衰えてしまうようなことはなかった。

孝治の嫡男 明治(あきはる)は英邁な性質であり,
家督継承後,二人の弟 治元(はるもと)や治豊,
さらに名将らに支えられて着実に勢力を拡大,
徐々に香上家を追い詰めていくのである。

その明治が,自身の子 治邦(はるくに)を養子に入れて,
ついに香上家を乗っ取ったのは,
孝治の死からちょうど50年後,清正15年(1544)のことであった。