宗治誕生

安達宗治は,興徳7年(1461),
海西南部の小諸侯 安達藤治(あだち・ふじはる)の嫡男として生まれた。

「諸侯」とは,爵位と領国とを広奈国皇帝から賜っている者のことである。
広奈国が諸侯に与える爵位は,
最上位から,公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順となっていた。

「男爵」の安達家は,諸侯としては最下級であったと言える。
爵位を持たず,朝廷からは「諸侯」の配下として見なされているような「領主」と比べても,
男爵程度の諸侯は,貧しい存在であった。

たとえば,香上氏の配下であった「領主」白川氏は,
動員兵力1万程度の勢力であったが,
安達家は,「諸侯」でありながら2千弱の兵しか持たない弱小勢力であった。

乱世ともなれば,こうした弱小勢力が生き残ることは難しくなる。
当然,彼らは他の大諸侯に庇護を求めることを余儀なくされる。

つまり身の安全を保障してもらうかわりに,
「諸侯」としての誇りを捨てるのである。

「諸侯」としての誇りとは,何か。
皇帝以外の何者にも「家来扱い」されないということである。

安達家は,宗治の祖父 利治(としはる)の代に今原家に庇護を求め,
「諸侯」でありながら,皇帝以外の者に「家来扱い」される屈辱的立場に立つこととなった。

当時の海西地方では,
北部の今原,西部の北,南部の諏訪の三氏が三つ巴の抗争を繰り広げていた。

安達家本拠 舞丘(まいおか)は三氏の勢力圏がちょうど,重なり合う場所にあり,
そのために歴代の当主 利治,藤治らは,情勢に応じて三氏のいずれかに属した。

しかし,いずれにせよ「家来扱い」されることに変わりはなく,
安達家は,「主君」と仰いだ「諸侯」のために度々,遠征に駆りだされる羽目になった。

興徳28年(1482)の父 藤治の死により,宗治は家督を継ぐこととなったが,
このとき安達家は,今原家に属していた。

当然ながら,宗治にも今原家の「家来」としての境遇が待っていたのである。

既に,宗治は,今原氏の重臣である内藤行平(ないとう・ゆきひら)の娘 寛子を正室とし,
今原家中に組み込まれていた。

しかし,宗治は,祖父や父よりもはるかに野心家であった。

「いずれ必ず,花岡公(=一条智綱)を超える天下人になってみせる。」

幼少のころ,宗治は周囲にそううそぶいた。
周囲の者の中に,宗治の言葉を真に受けるものなどほとんどいなかった。

ただ,宗治の師たる福科智成(ふくしな・ともなり)だけは,
宗治の言葉を聴くとほほえみながらうなずいてみせるのであった。