智綱以後,宗治以前

宗治が家督を継いだ翌年,中央で大変事が起こった。

興徳帝が崩じたことを契機として,
第五皇子詮邦が,異母兄に当たる皇太子 詮宗を都から追放したのであった。
いわゆる癸卯の変である。

詮邦皇子は,そのまま皇帝の号を称し,元号を景福(けいふく)と定めた。

無論,太子派は,景福帝を皇帝とは認めず,元号も「興徳」を使用し続ける。

智綱の生前,花岡同盟の諸侯らは,
皇太子 詮宗を即位させることで同調したはずであった。

ところが,平泉氏や平山上原氏などは,花岡同盟の有力諸侯でありながら,
智綱の死後は,詮邦皇子の共立を画策するようになっていく。

そしてついに癸卯の変では,一条家に反旗を翻して詮邦皇子を担いだのであった。

ここに至って智綱が生涯をかけて築き上げた花岡同盟は,
当の智綱の死からわずか6年目にして事実上の崩壊を迎えることとなってしまった。

しかし乱世は,智綱に替わる「覇者」の存在を求めてやまない。
にもかかわらず,平泉氏や両上原氏,京極氏などは,智綱の代役としては力不足であった。

彼ら畿内の諸侯は,互いにほとんど同程度の勢力を有する諸侯であったから,
結局は激しく対抗心を燃やして朝廷での主導権を争うに至ったのである。

この争いは,やがて武力によるものへと発展するのであり,
景福帝が即位して1年も経たないうちに,
畿内では諸侯の戦が絶えない状況となってしまった。

一方,都を追われた詮宗皇子はこのころ,
母の実家である今原家の庇護を受けていた。

無論,その頭の中には,
今原家の力を借りて景福帝を打倒してやろうという企図がある。

今原家は,従前より花岡同盟に参加しており,
首内東部・海西西部に跨って勢力を張る北氏や海西南部の諏訪氏らと争っていた。

やがて諏訪氏は,重臣 坂井氏によって乗っ取られたが,
癸卯の変が勃発したころ,今原家はその坂井氏をも滅亡させて,
北氏の勢力も海西から追い出し始めていた。

ここに至って北家は,海西での勢力を維持するべく,
海西西北部 鈴見地方の防備を増強した。

しかし,興徳32年(1486),
今原当主 具行が自ら4万の兵を率いて鈴見地方へ乗り込んでくるにおよび,
北軍はあえなく粉砕されてしまうのであった。

こうして北氏の勢力は海西地方からは完全に駆逐され,
首内東部に逼塞するに至ったのである。