今原軍入京

今原家は海西の覇者となった。
人口およそ600万,動員兵力20万弱。
その国力は智綱時代の一条家に倍するものであった。

北家を鈴見地方から追い出し,後顧の憂いもなくなっていたことから,
今原具行は,ついに太子 詮宗を奉じての入京を決意する。

入京軍の総勢は,10万にも達した。
その中には,安達宗治の姿もあった。

東国の今原家の動きに,
西国からも一条家が同調した。

一条家の当主は,
すでに智宣から,その嫡男智継(ともつぐ)へと替わっている。

智継は智宣よりは,聡明であった。
このため,智継の代に入ると一条家の勢威は,
少しずつ回復し始める。

やがて,一条家を目のかたきにし続けてきた大神朝高も,
八十代で大往生を遂げた。

朝高の後継 頼高は,
自身の器量を良く理解している人であったから,
父 朝高に遠く及ばない自分では,
一条家に抗し続けるのは不可能と判断,
一条家と和睦する道を選んだ。

大神家という後顧の憂いが消えたことによって一条家は,
折しも入京軍を起こした今原具行に呼応することができたのであった。

結局,一条智継は太子 詮宗のために5万の軍を動かす。

今や広京の景福帝は,
今原と一条に東西から挟撃される形となった。

この間まで,朝廷での主導権をめぐって争っていた
平泉・京極・両上原ら畿内の諸侯は,
この事態を受けてようやく協力関係を取り戻す。

今原・一条両家の軍勢は,破竹の勢いで進軍し,
ついに新駅(しんえき)の地で合流を果たした。

今原・一条連合軍15万は,
都の北の入り口とも言うべき加住(かすみ)の地で,
畿内諸侯の連合軍7万と最終決戦に及んだ。

結果は,今原・一条連合軍の大勝に終わる。
数の上から見て,当然の結果といえた。

入京後,太子 詮宗は正式に即位,
「天啓」(てんけい)の元号を立てる。

このため詮宗は後世,天啓帝と呼ばれる。

天啓帝は,自身を即位させてくれた具行を左大臣に,
また一条智継を右大臣に任命した。

この二人を中心とする新政権は早速,
諸国と連絡をとって,ついに花岡同盟を再興するに至る。

ところが,翌天啓2年(1487)にはもう,
今原氏の覇権は脅かされ始めた。

海西で美好重時(みよし・しげとき)が北氏と組み,
今原氏に反旗を翻したからである。

美好氏当主 重時を動かしたのは,安達宗治であった。

「今原軍主力は,目下のところ都にあり,
本領たる海西の地は手薄となっております。

まさにこれは今原領を切り取る絶好の機会です。」と宗治に言われ,
野心家たる美好重時はその気になった。

しかし,天下人に背くには,それなりの大義名分が必要となる。

重時の大義は「君側の奸たる 今原具行を除く」というものであった。

美好方は「今原具行が天啓帝を傀儡にし,
あまつさえその御位の簒奪を図っている。」と天下に喧伝する。

美好重時は,今原氏の入京軍に参加していたのだが,
たちまち海西ヘ立ち戻って挙兵,
今原方の諸都市を攻略しにかかる。

無論,安達宗治も美好軍に参加して今原軍掃討に尽力した。
この功で宗治は,重時から加増を受け,兵5千を動かせる勢力へと成長している。

今原具行は,美好軍に対処するため,
帰国を余儀なくされた。

以後,今原軍のいなくなった都は,
一条軍があずかることになる。

具行が,本拠 青綾に戻ったとき,
すでに真秀川(まほがわ)以南のいわゆる河南地域,
および真秀川河口周辺のいわゆる河口(かこう)地域は,
美好方の占有するところとなっていたのであった。