美好・今原膠着

天啓3年(1488),失地回復を目指す今原軍は,
美好氏本拠 甘港(あまみなと)を目指して南下した。
美好氏は,これを式道(しきどう)の地で迎え撃つ。

今原,美好両軍の対峙は一か月近くに及んだが,双方ともに決定打を欠き,
ついに決着はつかないままとなった。

こうしたことを踏まえて天啓4年(1489),今原具行は,情勢の打開をはかるべく,
美好氏の南の背後を占める川上氏と同盟を組んだ。

早速,川上氏は美好氏の勢力圏へと侵入してきた。
ここに至り安達氏は,対川上戦線の最前線に立たされることになってしまった。

宗治は,重時に救援を要請すると同時に,
舞丘の近郊に伏兵を配して川上軍を待ち受けた。

川上軍が,舞丘に攻撃を仕掛けたとき,安達の伏兵が川上軍の背後を襲う。
混乱する川上軍へ,今度は舞丘の内にいた安達勢がすかさず攻撃を仕掛けた。

川上軍は多勢が幸いして総崩れこそ免れたものの,
態勢の立て直しを余儀なくされることとなった。
このあたりから川上陣中では2つの意見が対立しはじめる。

あくまでも,安達氏を攻略するべきであるとの意見と,
今回は,兵を引くべきであるとの意見である。

こんな状態であるから,川上軍は全く勢いが振るわない。
結局,美好の安達救援軍が舞丘に接近中であるとの報を得ると,
ついに川上軍は引き上げを選択したのであった。

宗治の活躍により,南方からの軍事的圧力を退けた美好重時は,
天啓5年(1490),今原遠征を敢行した。

北上してくる美好軍を,今原軍は海西中部の要地 伴瀬の地で迎え撃つ。
このとき,北軍が美好軍と呼応して今原領を襲う手はずとなっていたが,
北軍1万は出陣しながらも,情勢を傍観するのみで積極的な軍事行動を控えた。

この北軍の傍観に助けられた今原軍は,伴瀬防衛に全力を傾ける。

結局,美好軍は,万全の防御体制をとる今原軍をついに破ることができず,
対峙一か月の後,ゆるゆると本領へ引き上げていくはめになったのであった。