宗治暗躍

美好,今原両氏が膠着状態に陥る影で,宗治は着実に勢力を拡大していた。
中でも,七相(なない)の諸侯 南家を乗っ取ったことは大きかった。

南家当主 国廉(くにかど)と正室 雛(ひな)の間には男子が生まれなかった。
そのため国廉は,側室の産んだ長男 時廉(ときかど)を南家の嗣子としていたのであった。

ところが,時廉は若くして病死してしまい,同母弟の輔廉(すけかど)が嗣子となる。

けれども,輔廉は嗣子になったとたん,
人が変わったように凶暴になってしまう。

輔廉は,やがて南家を揺るがす事件を起こした。
始まりは輔廉が,弟の幹廉(もとかど)・経廉(つねかど),いとこの利保(としやす)の三人に
言いがかりをつけたことだった。

どういうわけか,輔廉は,三人が,
自分の悪口を吹聴して回っていると誤解したようであった。

身に覚えのない言いがかりに,三人は戸惑うばかりであったが,
それがかえって輔廉を激昂させた。

ついに輔廉は,二人の弟と利保を斬殺し,
そのまま逃亡,自害してしまうのであった。

輔廉には,嫡男があった。
しかしながら南家では,当主の国廉も家臣も,
怪事件を起こした輔廉の系統を後継候補とすることを良しとしなかった。

また,この事件で,南家の声望も衰えてしまった。

ここにいたり国廉は,正室 雛の甥である安達宗治に養子縁組の話を持ちかけた。
そこには,南家の体制を刷新し,声望を回復させるため,
勢いを増しつつある宗治の力を借りようという国廉の意思があった。

結局,美好重時が斡旋する形をとって,宗治の弟 治続が南国廉の養嗣子となった。

天啓7年(1492),治続は改名して,義廉(よしかど)と名乗る。
義廉の義父 国廉は,翌年,今原家との戦いに従軍して戦死し,
ついに義廉が南家の当主となった。

事態がすべて安達家の都合の良いように運んだので,
時廉の病死と輔廉の乱心は,
いずれも宗治が何らかの策謀をめぐらせた結果なのではないかという憶測も飛んだ。

真相は藪の中というほかないが,
ともかくも宗治は南家を乗っ取り,それによって優秀な水上戦力を手にしたのであった。