風子

通常,皇后となれるのは,
上流貴族出身の娘だけであったから,

風子は本来であれば,皇后になれるような出自ではなかった。

ところが,この絶世の美女の虜となってしまった順正帝は,
靖子の死後は空席となっていた皇后の座を,
ついに風子に与えてしまう。

それは,周囲の反対と,
なにより当の風子自身の反対を押し切って行われたことだった。


順正20年(1431),皇后となった風子は,ほどなく懐妊,
翌年,詮文(あきふみ)皇子を出産した。

風子に異常なほどの寵愛ぶりを見せる順正帝は,
その風子が産み落とした詮文皇子をも溺愛した。

成長するに従い,詮文には驕慢な振る舞いが目立つようになり,
そのことが風子を悩ませた。

風子は,
「この子が帝室に騒動を巻き起こさなければよいが。」
そんな感情を持ち始めたという。

しかし,風子の心配をよそに,順正帝は,詮文を可愛がった。
可愛がりすぎたといってよい。

詮文は太子にも匹敵する扱いを受けるようになっていた。

太子と詮文。
ふたりも次期皇帝候補がいては,臣下たちは迷わざるをえない。

自分が担いだほうが皇帝になってくれればよいが,
そうでない場合は,冷や飯を食わされることになるからである。

結局,臣下たちは自分の都合に合わせて,ある者は太子に付き,
またある者は詮文についた。

ついに朝廷は,二分されはじめたのである。お家騒動の始まりであった。

風子を皇后に据えた頃より,
順正帝は失意の淵から抜けだし始め,
再び即位当初の旺盛な覇気を取り戻すようになっていた。


しかし帝は,三度目の亜州遠征敢行には踏み切れないでいた。

広奈国の国力が,十分には回復していなかったからでもあり,
帝が,とある妄想にとりつかれていたからでもある。

とある妄想,

自身の地位を太子が脅かそうとしているのではないかという妄想である。

無論,その妄想を順正帝に植えつけたのは,
太子の廃嫡を狙う詮文派の臣たちであった。

中でも滝川之信(たきがわ・ゆきのぶ)というものは,
佞臣というにふさわしい人物で,
阿諛追従だけで順正帝の寵を受けている者であった。

順正帝が,太子よりも詮文を重んじるようになったのを見計らった之信は,
ことあるごとに手を変え品を変えては,
太子の悪口を順正帝の耳に吹き込み続けた。

帝は少しも之信を疑わない。
やがて帝は,

「朕を脅かそうとする者を太子の座に据えておくわけにはいかぬ。
風子が産んだ詮文を太子にしよう。」

そんな風に思い始めたようであった。