帝国分裂の危機

帝は,まず太政官の人事をもてあそんだ。
太政官は,広奈国時代には,大陸にならって,内閣ともよばれ,
皇帝の補佐を担当する機関であった。

通常は,左・右・内の三大臣を筆頭とし,
その下に大納言・中納言・参議などがおかれていた。

目下,内閣の主席たる左大臣の位にあるのは,
太子派の河本言尊(こうもと・ときたか)であった。

順正帝としては,内閣の主席には,
詮文派を任命したいところであった。

かといって,言尊を急に左遷すれば
太子派が一気に過激な行動に出ないとも限らない。

そこで,帝は,言尊を内閣の主席においたまま,
言尊の権限を縮小する方法を採った。

詮文派の京極孝久を左大臣に任命し,言尊を太政大臣としたのである。
太政大臣は臨時の最高職で,当然,左大臣よりも上の位。

しかし,太政大臣は当時の広奈国においては名誉職と言ってよく,
実権は実質的に左大臣の京極孝久が握ることとなった。

この他にも,様々な重要人事で詮文派は,
極端な優遇を受けていく。

結果,詮文派は権勢を誇るようになり,
太子派は,次第に実権を奪われていった。

不遇をかこつこととなった太子派の面々は,
憤りを強くし,必死に再起を図る。

ともかくも,朝廷は完全に割れた。

そして中央における太子派と詮文派の対立は,
地方の情勢にもおおいに影響を与えた。

従来から地方の諸侯には,中央の大臣達に擦り寄る傾向があった。
これは領国内の支配を円滑に進めるためでもあり,
近隣の諸侯よりも優位に立つためでもあった。

しかし,中央の大臣は一枚岩ではない。

いくつかの派閥をつくっていがみ合っているのである。
となれば地方の諸侯は,
自分にとってより都合のよい大臣や派閥に従おうとする。

対立する隣の諸侯があちらの大臣へついたというのであれば,
自分はこちらの大臣へ,
といった具合に。

だから中央の闘争は,必然的に地方にも波及したわけである。

中央も地方も今や一触即発であった。

しかし,風子母子への盲愛に溺れる順正帝には,
自分の帝国が足元から崩れようとしている状況は,

まったく見えていなかったものと思われる。