第四次亜州遠征

順正帝が水奈府から広京に戻って数ヵ月,明けて順正33年(1444),
太子派の重鎮たる太政大臣・河本言尊が薨去した。

太子派で唯一,要職にあった言尊が亡くなったことで,
もはや朝廷内には,詮文派にあらがえる人物はいなくなってしまったのである。

太子は,ついに都内で孤立を余儀なくされることとなった。
その直後,順正帝が亜州への四度目の遠征計画を発表する。

このあまりにできすぎた状況に,
言尊の後を受けて太子派の盟主となった一条智綱(いちじょう・ともつな)は,
「もしや,河本殿は毒を盛られたのでは。」と疑い,調査をさせたが,
結局,真相にたどり着くことはできなかった。

ともかくも順正帝は,
「これで目の上のこぶがとれた。」
とでも言いたげに意気揚々と水奈府の行宮へ入った。

第四次亜州遠征が始まったのである。
広奈軍の今回の標的は,元にかえって,日生国であった。

結果のほうはといえば,これもこれまでの遠征の時と同様,
いや,それよりももっと惨めなものだった。

広奈軍には,またも南海衆が参加していたのであるが,
彼らは戦闘中,こともあろうに日生側へと寝返ったのである。

南海衆は実は,日生側からも誘いを受けて迷っていた。

だから,戦場で日生側に分があると見るや,
戦後の報酬欲しさに寝返りを打ったのであった。

広奈軍は,今度は半数どころか九割方の兵と船舶を失った。
十分な水上戦力がなくなった以上,
再度の渡海は不可能な状況であった。

こうして四度目の亜州遠征は最もあっけない形で終わったのである。