皇帝を奉戴するということはどういうことか。

それは,大義名分を得るということである。

今や一条家に背くものは,
皇帝に背く者に他ならない。

智綱は誰はばかることなく,
一条家に敵対するものを,朝敵として討伐できる立場に立った。

位人臣を極めた智綱ではあるが,
しかし彼には簒奪の心はない。

智綱は,本気で皇帝のために広奈国の統一を回復する気でいる。

だから,智綱は皇帝を傀儡にすることもなく,
あくまでも左大臣の立場から,
皇帝を補佐するという立場に立ち続けたのであった。

同じく皇帝家の分家の当主でありながら,
時の皇帝を弑殺して簒奪をはかった名島詮時とは,
全く正反対の人であった。


下克上が盛んになり始めた当時の風潮を元にして考えるならば,
智綱は古き良き時代の人であったと言える。

ともかくも,智綱は,皇帝を頂点とする秩序を回復するために奮闘していくのである。

帝国の秩序回復の第一歩として智綱は,
友好的な諸侯との間に同盟関係を構築した。

宣昭4年(1448)のことである。

同盟の目的は,
第一に皇帝を尊ぶこと。
第二に,皇帝に叛く諸侯を討伐することである。

この同盟には,一条家を盟主として以下,
湾陽の沢渡氏,
畿内の平泉氏・平山上原氏,
北海の藤真氏,
海西の今原氏,
首内の河本氏,
海陽の川上氏・本宮(ほんぐう)氏・南条氏,
湾陰の高山氏,河首の友永氏・平瀬氏らが参加した。

そして皇太子妃は,同盟諸侯 今原家から迎えられることとなった。
この同盟は,盟主 一条家の本拠地の名前をとって
後世,歴史家から「花岡同盟」と称される。

花岡同盟成立によって智綱はひとまず,
帝国内にある程度の秩序を構築することに成功したのであった。

とはいえ,盟主たる一条家が凋落するようなことでもあれば,
この同盟はすぐにでも崩壊しかねない。

当然,智綱としては,勢力基盤である西国で反一条勢力を除いて,
自家の勢力を安泰なものとする必要があったのである。




この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。