楯岡の会戦

今や一条家は,湾陽地方全域を制覇していた。
しかし西国における智綱の奮闘は,いまだ終わっていなかった。

大神朝高が,持高を返り咲かせるべく連年,一条領へ侵攻してくるようになったのである。
しかも厄介なことに,大神氏は日野氏との間に連合関係を築いてしまっていた。

かつて智綱は,河首地方の友永氏を動かして日野氏を牽制させる構図をつくりあげていた。
ところが,その状況は,このころ大きく変化していたのであった。

宣昭8年(1452),友永氏が家臣の高田氏に取って代わられてしまったのである。
いわゆる下克上であった。

友永氏は河首地方の諸侯ではあったが,
河首地方よりはむしろ,日野氏らの割拠する湾陰地方への進出を狙っていた。

だから,平瀬氏と組んで背後の安全を維持する一方,
日野氏攻撃のために一条氏と遠交近攻同盟を続けるというのが友永氏の基本戦略であった。

しかし,高田氏は,旧主 友永氏と違って河首地方の制覇を狙ったから,
日野氏と組んで背後を安全にした上で,平瀬氏と争うようになったのである。

これを機に南からの軍事的圧迫から開放された日野氏は,
大神氏と連合して積極的に一条家打倒を企図するようになった。

宣昭9年(1453),日野・大神連合軍は,満を持して一条領へと侵攻してきた。
その数,3万2千。

対して一条家は,2万の兵を畿内の守備に残したままだったこともあり,
当主 智綱の元には1万5千の兵しかいなかった。

智綱は早速,盟友 沢渡嘉に援軍を仰ぐ。
嘉はこれを快諾し,兵5千を送ってきた。

それでも一条・沢渡連合軍はまだ,数の上で日野・大神連合軍に及ばない。

日野・大神軍の侵攻を見越して智綱は,すでに楯岡(たておか)の地を確保していた。

「楯岡は,我が領国の入口とも言うべき要衝。
ここを抜かれるのは,本拠 花岡を裸にするのも同じこと。」

というのが智綱の認識であった。

楯岡での会戦は,まさに一条家の命運がかかった一戦だったわけである。


日野家軍師 錦織親長(にしこり・ちかなが)は,
楯岡にすでに堅牢な備えがなされていることを知ると,

「敵方の備えは随分と堅いようですから,
ここは軽々には動かず,包囲策をとるのが良いでしょう。」
と主君・日野国親に進言した。

大神朝高も同じ考えであったが,
しかし,国親は,兵数で敵よりも優位にあることに安心しきっていて全く聞く耳を持たない。

日野家のほうが大神家よりも格上で勢力も大きかったことから結局,
国親の意が通ることになった。

すなわち日野・大神軍は,包囲策ではなく強攻策に出,
連日,楯岡に猛攻をしかけた。


しかし楯岡は,一か月を経ても陥落しなかった。

日野・大神軍に参加している小領主たちの間に厭戦気分が漂う。

智将の誉れ高い智綱が,この状況を捨ておくはずもない。
彼は早速,日野・大神方の小領主らと水面下で連絡をとり始めた。

その結果,日野属下の木戸・真柴(ましば)両氏と
大神属下の多峨(たが)氏が鞍替えして,一条・沢渡軍についたのである。


結局,日野・大神両氏は,自国へと撤退することとなってしまった。