東征

智綱の奮闘は終わらない。

今度は,畿内東部に勢力を持つ京極家が動き始めた。
京極家は,松下の戦いで当主 孝久を一条軍に討ちとられている。
京極家の現当主 之久(ゆきひさ)は,孝久の子であったから,
父を殺した一条家に雪辱することを誓ってやまなかった。

智綱が日野氏や大神氏との争いに忙殺されている状況は,
之久にとってまさに雪辱の好機に他ならなかった。

興徳3年(1457),京極氏は,皇族の一人である詮由(あきよし)を担ぎ出し,
氷見の上原氏や久瀬氏などの諸侯を誘って,広京の都を襲撃するに至ったのである。

京極方の兵力は5万を数えた。
広京を守る吉野綱広は,都近郊の要衝 向原(むかいはら)で京極方の軍を迎え撃った。

急を告げる都からの使者は,花岡の智綱と
一条家の同盟者である沢渡・河本両家の元へと馳せた。

智綱は,都からの急使を迎えると,兵1万を率いて花岡を進発,
途中,桐生で沢渡家の兵5千と合流し都を目指した。

河本家などは,近隣諸侯との抗争を抱えている状況にもかかわらず一条氏への救援を決定,
兵1万を都へ向かわせた。

吉野綱広は,向原の地をよく守った。
その間,智綱の軍と沢渡軍,河本軍は続々と救援に現れた。

智綱は,さらに京極方に衝撃を与えるため,
京極氏の本領をその背後にいる藤真氏に攻撃してもらった。

おおいに狼狽した京極氏らの軍は結局,花岡同盟軍に敗れ撤退していった。

戦後,智綱は都を襲撃した諸侯らを駆逐することにした。
向原の会戦から一か月後,智綱率いる一条軍はもう,久瀬氏と氷見上原氏を降した。

京極氏は完全に孤立した。
京極領は西から一条軍を迎え,東から一条軍と呼応して動く藤真軍を迎えた。
京極家家中では,次第に降伏論が台頭してきたが,
当主 之久は智綱への深い恨みからこれを承諾しない。

そうこうする内,八橋(やばせ)での会戦で花岡同盟軍に京極軍は大敗を喫した。
京極家の重臣達はついに,降伏を渋る之久を暗殺して,
之久のいとこの政久(まさひさ)を当主に据えた。

かくて,京極家は一条家に降伏を申し出たのであった。