反一条包囲網崩壊

大貫氏を滅ぼした智綱が次に狙ったのは,堂島氏であった。
堂島氏は,一条家の盟友 沢渡嘉と連年,抗争を続けていた。

仮に沢渡氏が堂島氏に滅ぼされるような事態にでもなれば,
都 広京と一条本領の連絡は遮断されることなる。

智綱にとってあくまでも沢渡氏を攻撃し続ける堂島氏は,
放ってはおけない存在であった。

そこで智綱は,日野・大神両氏の動きが鈍い間に,
沢渡氏と共同して堂島氏を滅ぼすことにした。

興徳8年(1462),一条・沢渡連合軍2万5千の前に,
7千の兵しか持たない堂島氏は,
あっけなく打ち破られて滅亡を迎えた。

蘇我の日野氏と抗争していた有帆日野氏は,
このとき堂島氏を積極的に救援できず,
盟友を見捨てるという失態を演じる格好となってしまった。

しかし有帆日野氏は,黙っていなかった。
興徳9年(1463),香上氏と共同して蘇我日野氏を大破すると,
続いて大神氏と共同してまたも一条領 楯岡に進出してきたのである。

日野・大神連合軍は4万に膨れ上がっていた。
智綱は,楯岡という堅牢な地に拠る利を得ているため,
専守防衛に徹して日野・大神軍の攻撃をやり過ごそうと考えた。

日野国親は,前の失敗にも学ばず,
またも楯岡を力攻めにしようとした。

これに対して大神朝高は,
「楯岡の守りは堅牢そのもの。持久戦こそ上策。」
と正反対の意見を述べた。

やがて,国親は朝高を疎んじ始めるようになる。

日野・大神陣営には不穏な空気が流れ始めるようになる。

結局,日野・大神軍は一か月を経ても楯岡を陥落できず,引き上げを決めた。

朝高は,
「国親は,ともに語るに足る人物ではない。」
と思ったがそれを大っぴらに吐きだすほど小さい器量ではない。

粛々と1万2千の軍兵を率いて自領へと引き上げていった。

一方,日野国親は,
「朝高が腰抜けだからこんな結果になったのだ。」
と言ってはばからず,地団駄踏みながら帰国していく。

これを機に日野・大神両氏の間には不協和音が流れ始めることとなってしまった。