帰還した大神朝高は,一条領内に潜んでいる大貫残党と連絡をとった。
旧大貫家臣の中には,一条家に従うのをよしとしない者もまだ相当にいたのであった。
彼らは,大神氏から援助されると,
落ち延びていた大貫一族の中から持賢(もちかた)という人物を担ぎ出して,
たちまち大貫家の再興を目指すようになったのである。
興徳10年(1464),大貫残党は早速,大神軍と共同,一条家に対して兵を挙げた。
しかし,この事態は一条家にさしたる衝撃を与えなかった。
一条氏を包囲する網は,
今やほとんど破綻しかかっていたからである。
堂島氏は滅亡していたし,
何より日野・大神両家の連携ももはやうまくいかなくなっている。
大神・大貫残党の連合軍に対し,一条家はほとんど全力を傾注できる状態にあった。
一条軍は,大貫家再興を目指す大神・大貫軍を
旧大貫領の要衝 熊井の地で大破すると,
今度は攻勢に出て大神氏の領国へ兵を進めた。
「日野国親などは問題ではない。あの男は単に気位が高いだけの小人物に過ぎぬ。
西国の敵で最も怖いのは,大神朝高である。
あの男は誰よりも強かな性質。この機にたたいておかなくては,将来に禍根を残す。」
というのが智綱の以前から変わらない考えであった。
一条軍の侵攻を迎えた大神朝高は,
日野氏に救援を求めたが,日野当主 国親は朝高に含むところがあるためか,
なかなか大神氏救援を決定しない。
興徳11年(1465),一条軍は,
ついに要衝である城戸,佐浦を大神軍から奪取したのであった。
ここで日野軍は,ようやく動いた。
しかし,直接大神領へ救援に向かうのではなく,
手薄になっている一条本領を襲うことで,
大神領へ侵攻した一条軍を引き上げさせるという手段をとった。
智綱は,このあたりが引き上げ時であると判断して大神征伐を中断,花岡へ帰還していった。
対外貿易港である城戸と佐浦を失陥したことは,
大神氏にとって財政上の大打撃であり,
その勢力はもはや虫の息といってよかった。
智綱は,ひとまず反一条包囲網を崩すことに成功したのである。
