反一条包囲網復活

さて西国の状況は,小康状態を保っていた。

一条家を目の仇にし続けてきた大神家の勢力が,
弱まっていたからである。

しかし,まだ有帆日野氏には,一条家に対抗する余力が残っていた。

興徳11年(1465),日野軍は,
またも楯岡に進出してきたのであった。

とはいえ,有帆日野家には
もはや逸材と呼べるような者はいなくなっていた。

当主 国親が凡愚を絵に描いたような人物であり,
諫言する忠臣・賢臣を遠ざけて阿諛追従の佞臣ばかりを重用してきたからである。

これではまともな戦略・戦術が立とうはずもない。

今回の楯岡の役も,国親自身の深い考えから起こったものではなかった。

武断派の威勢の良い言葉に乗せられて,
つい出陣する気になったといった程度のものであった。

こんな具合に始まった遠征であるから,
その陣営の雰囲気はすこぶる浮ついたものであった。

一条軍が楯岡周辺の地勢を生かして,
あちらこちらへ打って出て攻撃をしかけると,
日野軍はたちまち浮き足立って翻弄されるばかりである。

そしてついには,
国親自身が流れ矢にあたって重傷を負うという事態にたち至る。

有帆日野軍は,ほうほうの体で引き上げるという体たらくであった。

まもなく国親は戦場で受けた傷がもとで亡くなり,
その嫡男 祥親(よしちか)が有帆日野氏の家督を継ぐこととなったのである。

しかし,結果的に国親の死は,
皮肉にも有帆日野氏の勢いを回復させるきっかけとなった。

新当主 祥親が,父 国親を数段上回る器量の持ち主だったからである。
祥親は,興徳14年(1468)には,蘇我日野氏との関係修復にあたり,
さらに,悪化しつつあった大神氏との関係をも好転させはじめた。

大神氏はといえば,このころには,先の敗戦の衝撃から立ち直り,
富国強兵にいそしんでいた。

智綱からも一目おかれた大神朝高は,
再び暗躍を始めるようになっており,
一条領内の大貫残党としきりに連絡をとった。

大神・大貫残党は連年,旧大貫領へ侵攻してくるようになり,
これに呼応して有帆日野軍も度々,一条領を侵すようになった。

こうして反一条包囲網は半ば復活してしまったのである。