両日野氏制圧

そして今度は,智綱が攻勢に転じる番であった。

本来,戦に勝つために最も有効な方策は,
敵よりも多くの兵を運用することに他ならない。

智綱は,この単純だがしかしなかなか難しい方策を実行した。

一条家は,今や北の大貫,東の堂島両氏を完全に滅亡させ,
南側にしか敵を抱えていない。

そこで智綱は,これまで大貫・堂島両氏に備えてきた兵力をも
対両日野戦線へと投入したのであった。

さらに堂島氏の軍事的圧迫から解放された沢渡氏にも協力を仰いだ。

一条・沢渡連合軍は,6万を数えた。

対する両日野氏。
有帆日野氏の軍3万に,
蘇我日野氏が兵1万を率いて合流した。

興徳19年(1473),両軍は,鹿野(かの)という地で対峙した。
日野氏にとって,本拠 有帆の外郭とも言うべき要衝である。

蘇我日野氏が,一条軍の挑発に乗って突出したところから一気に戦局は動いた。
蘇我日野軍1万は,壊走を余儀なくされ,後には有帆日野軍が残るばかりである。

蘇我家当主 元総(もとふさ)の直情径行の行動が招いた結果に,
有帆家当主 祥親は,歯噛みする思いであったが,
事ここに至ってはしかたなく,すぐに全軍引き上げを決定した。

要衝を明け渡した有帆日野氏は,
以後,防戦一方となった。

一条軍は連年,日野領へと侵攻し,
その領国を次第に蚕食していった。

時折,大神軍が一条軍主力の留守を狙って,
旧大貫領方面へ進出することはあったが,
それも散発的なものに終始した。

興徳21年(1475),智綱は,いよいよ日野氏との抗争に決着をつけるため花岡を出,
前線に近い楯岡に入った。

日野氏を下すまで花岡には,戻らない覚悟である。

日野祥親は,蘇我日野氏・大神氏らの協力を得てなんとか各地の要衝を堅守,
本拠の有帆に一条軍を近づけないでいた。

ところが,興徳22年(1476)に中須の戦いで一条軍に敗れると,
有帆日野氏は,蘇我日野氏との連絡を遮断され,
いよいよ窮地に追い込まれることとなった。

そして,有帆の最終防衛網たる矢崎でも,
日野・大神連合軍は一条軍に大破された。

ここに至り祥親は,他日を期すため,
ついに一条家との和睦を選択したのであった。