美好家隆盛

重時の死により,美好陣営には若干の動揺が生じた。

つい2年前,今原方から美好方へと転向した山吹地方の中山義直が,
今原方へと戻ってしまったのである。
乱世とはいえ,いかにも節操のない話ではあった。

今原家は,この時とばかりに美好遠征を敢行した。
先の伴瀬の戦いで失った,海西中部の支配権を奪い返すのが目的である。

今原軍は,北軍と共同戦線を張った。
美好方は,今原軍と北軍の挟撃を受けて敗退をくり返し,
ついに伴瀬・成沢(なるさわ)地方を失陥するに至る。

勢いに乗った今原・北連合軍は,美好領を東西に分断すべく,さらに南下してきた。

美好方の重鎮となっていた安達宗治は,
自身の本拠 舞丘とは真秀川を挟んで対岸にある,砂岡に陣を敷いた。

砂岡は,“岡”とは言うが,真秀川の川砂が堆積したいわば,湿地帯である。
宗治は,さらにこの頃ようやく出回り始めた新兵器「鉄砲」をも持ち込んだ。

常盤へ鉄砲を持ち込んだのは,イストラ人や,ペルトナ人である。
南海諸島や海東の日生国,安達家の本拠がある海西には,
15世紀の後半に入って続々と西洋の船が来航するようになっていた。

さて,今原・北連合軍は,砂岡に攻め寄せた際には,
6万にも膨れ上がっていたという。ところが……

連戦連勝の状況に加えて,
今や美好方を圧倒する兵力を持つ今原・北連合軍は奢っていた――

さしたる作戦を練ることもなく,砂岡の安達宗治の陣を攻めた。
足場の悪い湿地。大軍は動きを鈍くした。

そこへ,新兵器「鉄砲」の斉射である。

今原・北連合軍は,大混乱に陥り,
気がつけば,5分の1程度の安達勢に打ち破られていた。

それも惨敗である。

今原勢は,花倉行貴や吉木尚毅(きつき・ひさたけ),
中町行師(なかまち・ゆきもろ)らの勇将と万を超える兵士を失った。

砂岡の一戦で,形勢は逆転,
ことに,歴戦の宿将と多くの兵士を一時に失った今原家の衰退は顕著であった。

宗治の正室 寛子の兄 内藤行年は,これを機に美好方に鞍替えしている。

天啓13年(1498),せっかく取り戻した山吹の金山を美好方に奪い返され,
翌年には,鈴見地方も失って,北家との連絡まで遮断された。

宗治は,ここで再び動く。
花岡同盟以来,今原家と親交の深い,藤真家を美好方に引き込んだのである。

藤真氏は,もともと,北海の諸侯であったが花岡同盟下で勢力を蓄え,
畿内東部にも勢力を伸ばしていた。

ところが,親交が深かった一条家は,
帝国の覇者から西国の一諸侯へと転落してしまい,
藤真氏の南の盟友 今原家もこのところ勢力の減退が著しい。

ちょうど,藤真家は孤立したような形になっており,
宗治に誘われて美好方に鞍替えしたのも無理からぬことではあった。

天啓15年(1500),美好重直は,藤真軍との挾撃により,
今原家から首北の静加地方を奪った。

重直は,今原攻撃の手を休めない。
宗治の進言にしたがって,今原本拠の青綾を孤立させにかかる。

「青綾は,海西でも随一の備えをもっている。
一挙に攻め落とすことは難しく,
孤立させて,じっくりと包囲の輪を狭めてゆくのが良い」

というのが,宗治の考えである。

毎月のように今原方は支城や拠点を失った。
そして,やがて完全に青綾は美好方によって包囲された。

もはや,美好の勢力圏を突破して直接,青綾を救援できる諸侯は,皆無である。

無論,花岡同盟の諸侯らは,
海上から青綾を救援しようとする動きも見せた。

しかし,兵船をだそうとも,青綾への補給を図ろうとも,
そうした動きはことごとく美好方によって阻止された。

ついに天啓帝の皇后の実家でもある名門 今原家は,
諸侯としての終わりを迎えた。

天啓19年(1504),今原当主 具尚は降伏,美好重直によって幽閉の身とされてしまった。