丙寅の変

海西を制した重直は,いよいよ,畿内へ進出する。
一条氏の覇権を継いだ今原家は滅んだが,
当の一条氏は,西国で健在であり,その勢力を盛り返していた。

かつては,花岡同盟に対抗できる連合勢力は広奈国内に存在しなかったが,
いまや,美好家は単独で花岡同盟を凌ぐほど強大化した。

ここにいたり,一条氏を盟主とする連合を西軍,
美好氏を盟主とする連合を東軍とも称するようになる。

天啓20年(1505),両者は,西軍諸侯 京極氏の領内,鶴見の地で激突した。

西軍は,一条軍5万,これに次ぐ河本氏1万5千や京極氏1万,
沢渡氏5千などを軸としており,
その他,中小諸侯の軍勢を含むとその合計,およそ10万。

東軍は,美好軍6万,藤真軍2万,安達軍1万,川上軍8千などを軸とし,
その他の軍勢を含め総勢は,およそ12万であった。

対陣は1か月以上にも及んだが,
結局,安達勢が一条軍の背後へ迂回して,
300丁ばかりの鉄砲をうちかけながら突入したのを皮切りに,各所で激戦となった。

西軍は,主力の一条勢が混乱状態となり,
戦死者数千,負傷者数万という甚大な被害を出して敗退した。

一条一族の重鎮であった綱貴,京極当主の元久は,壮絶な討死を遂げている。

勝った東軍でも,美好軍の驍将 石田時景が戦死し,
美好重直の弟 重村が重傷を負い,西軍同様万を数える死傷者を出すことになった。

東軍には,広京へ引き上げる西軍を追う余力はなかった。
美好重直は,一旦,海西に戻り態勢を立てなおすことにした。

ところが,海西に引き上げてきた重直は,
突如として謀反を起こした馬淵頼忠(まぶち・よりただ)によって,討たれてしまった。

これを事件が起きた天啓21年(1506)の元号と干支から,
天啓丙寅(てんけいへいいん)の変と呼ぶ。