河本家との争闘

海西では,また新たな事態が生じた。
天啓22年(1507)の北詮房の逝去である。

かつては,今原,美好と並んで
海西三大勢力の一角を担っていた北家では,
嫡流が詮房の死によってとだえてしまったのであった。

北家中は,諸派閥が様々に運動し,
お家騒動の前夜といった様相を呈し始める。

安達宗治は,母が北家の出身であることを理由に、
弟の治輔を北家に入嗣させるべく,北家中の主流派を取り込んだ。

治輔は、北家の家督を相続し,この後治房と改名している。

その一方で,北家中には,
傍流の晴房を当主に推す声も強かった。

晴房派は,首内の河本詮尊を後ろ盾として安達宗治に対抗する姿勢をみせた。

以後、安達家と河本家は北家の掌握をめぐり
激しく衝突することとなったのである。

河本氏の時の当主は,詮尊(あきたか)という人物であった。

詮尊は,なかなかの傑物であった。

状況判断に優れており,先の鶴見の戦いでも,
敗北した西軍の中にあって,最も死傷率が低かったのが河本勢であった。

大勢力となった安達家と事を構えるにあたっても,
詮尊は,いち早く後背地の安全を確保しにかかっている。

仇敵であった香上家と和睦したのである。

また,要衝である河津(こうづ)の地に城塞を築いて防備を固めた。

安達宗治は,5万を河津攻略に差し向けたが,
専守防衛に徹する河本軍からこの地を奪うことは出来なかった。

しかし,宗治はこれで河本討伐を諦めたわけではなく,
河津,沢口といった真秀川中流の港湾では,
こののち嘉徳2年(1510),同4年(1513),同9年(1517),同11年(1519)と
十年近くにわたり,安達,河本両軍が数度,対峙することになるのである。

そして,真秀川上の水上戦では,
宗治の弟 南義廉の南水軍や塔摩有間水軍が活躍した。