亜州遠征

このころ,宗治に「美好家当主」として奉じられた国重は,
もはや完全に傀儡といってよかったが,
天啓24年(1509),突如として宗治討伐の兵を挙げる。

「国重挙兵」の事実は,宗治による捏造とも言われているが,
結局,国重は,石田景悦(いしだ・かげよし)・
宇野忠理(うの・ただまさ)らの腹心とともに安達軍によって討たれ,
美好家は滅亡にいたるのであった。

かつて,美好家を盟主としていたいわゆる「東軍諸侯」は,
すでに宗治を自陣営の実質的な盟主とみなしていたが,
ここにいたり,宗治は名目の上でも,東軍の長となったのである。

何より宗治は,祖父の代以来失っていた
「皇帝以外には家来扱いされない立場」を
ついに取り戻したのであった。

この年,都では天啓帝が崩御した。

天啓帝には,皇子がいなかったため,
従前より帝は従弟を後継と定めていた。

新帝の御代となり,元号は嘉徳と定められた。
久方ぶりに騒乱のない帝位継承であった。

ところで宗治は,折しも繁栄していた南蛮貿易を独占するべく,
内海全域の制海権を握ろうと画策していた節がある。

そのためには,亜州へ進出しなければならないのだが,
かつて順正帝の攻勢を前に結束していた亜州の諸国は,
再び相互に激しく抗争するようになっていた。

亜州では,名和国が,後瑞穂国に取って代わられ,
その後瑞穂国と後志賀国が激しく覇を競い,
日生国は,首都である久礼を奪った緒土国に反抗を仕掛けていた。

宗治の目には,こうした亜州の状況は付け入るべき隙に見えたのかもしれない。

ちょうど,亜州の緒土国では,国王 経久が亡くなり,
その後継をめぐって内乱が勃発していたのだが,
これは,宗治が調略を持って緒土国内に親安達派を形成させて
王国の取り込みを図ったことが契機で起こった内乱だとも言われている。

親安達派の前久(さきひさ)と反安達派の朝和(ともかず)が,
いずれも緒土国王を称して抗争していたのであった。

ちなみに,後志賀国は,前志賀国と区別するために,
湯来(ゆき)氏が建てた王朝であることから,
湯朝(とうちょう)と呼ばれ,

後瑞穂国は,古代の瑞穂帝国と区別するために,
綾湊(あやのみなと)宮家が建てたことから,
綾朝(りょうちょう)と呼ばれる。

綾朝は元々、安達氏の亜州進出を警戒しており、
緒土国反安達派の朝和を支援していた。

しかし,綾朝が,内海進出を果たしたことから,
綾朝と朝和の仲は悪化する。

親安達派であった前久は,朝和を討とうと,
綾朝に接近した。

安達宗治は,前久の綾朝接近に厳しい態度を示す。

前久は綾朝への接近を中止する。

宗治は、綾朝討伐を決意した。

嘉徳7年(1515),緒土国前久派は、宗治の要請に応じ、
南義廉、有間歳久ら安達軍10万を綾朝領へ先導した。

これに対し綾朝は,猛将 里見泰之(さとみ・やすゆき)が、
3万を率いて有間歳久を奇襲,大破した。安達軍は,撤退を余儀なくされる。

綾朝は,建国以来最大の危機を乗り越えたのであるが,
反対に安達宗治は,美好家を乗っ取って以降,最大の危機をむかえたのである。