宗治南攻

宗治による亜州遠征の失敗は,たった一度の敗北によるものであるが,
それは順正帝の失敗を連想させるものに他ならない。

しかも宗治は,まだ「覇者」としての権力を確立したばかりである。
一度の失敗が,安達家の勢力を崩壊させる致命傷になりかねない。

そうした中で,嘉徳8年(1516),宗治は海陽地方への遠征を敢行した。
盟友である川上氏からの救援要請を受けたことが,きっかけであった。

海陽地方では,東部の川上氏を中心とする勢力と,
南部の南條氏を中心とする勢力の抗争が長らく続いていた。

当初,優勢であった川上氏は,嘉徳元年(1509),壁川(かべかわ)の戦いで
南條方の連合軍に大敗を喫し,以来,苦境に立たされ,
連年,勢力圏を後退させていた。

ここにいたり,海陽統一を目指す南條方は,
川上氏に止めを刺すべく,
ついにその本拠 高良(たから)にまで迫ってきたのである。
その数,2万。
高良に籠もる川上勢は6千であった。

宗治は,
本領の留守を賢臣 秋山政時に任せると,
盟友を救うべく,自ら4万を率いて舞丘を出た。
南條方は,安達軍の到着前に川上氏を滅ぼしてしまおうと,
高良に猛攻をかけたが,川上勢の抵抗は激しかった。

また,安達軍の行動も迅速であり,
南水軍・早良(さわら)水軍が安達軍を載せて南下した。

圧倒的物量を油断なく動員した安達軍の到着により,
南條方は大破され,本領の財満(ざいまん)へと引き上げていった。

しかし,南條方は依然として安達家に抵抗する姿勢を示した。
安達軍は,矢代口,虎伏(とらぶせ)口,安浦口の三路より
南條方の勢力圏へと侵攻した。

矢代口では,本宮(ほんぐう)氏が抵抗の構えを見せたが,
有間歳久率いる安達軍の総攻撃の前に,わずか2日で降伏した。

これにより安達軍の勢いを知った周辺の諸豪は,次々と安達方に鞍替えした。
歳久は,亜州遠征失敗の汚名を見事にそそいだのであるが,そこには,

「勝敗は兵家の常。歳久ほどの良将が敗将の醜名を着つづけるのは惜しい。
挽回の機会を与えたい。」

と考えていた宗治の配慮があったという。

さて,安浦口では,安達方の早良比良(さわら・ひら)率いる早良水軍が,
財満南條氏の傍流にあたる南海衆を撃破した。

早良勢はそのまま,南海諸島まで遠征,南海衆の勢力圏を制圧する。

三路のうち,最大の難所でもある虎伏口では,ひと月を超す長期戦となったが,
南條家当主 堯晴(たかはる)は,
「もはや,こちらの劣勢は明らか。虎伏を抜かれるのは時間の問題」
と考え,ついに安達軍への降伏を決めたのであった。

宗治の南攻は成功し,
安達家は先の亜州遠征失敗で迎えた危機を脱したばかりか,
より一層の勢力拡大を果たしたのである。