亡命皇子

宗治の南攻の隙を衝いて,河本詮尊が動いていた。

詮尊は一条家をも誘って安達本領への侵入を狙った。
陸路を行くのは,名将 四方堂尊国(しほうどう・たかくに)率いる河本軍,
真秀川の水路を行くのは,黒瀬顕時(くろせ・あきとき)率いる河本軍である。
その数4万。

対する安達方は,有間治久・北治房ら2万5千。

当初,陸路において四方堂尊国の誘引により,
治久の弟 久続(ひさつぐ)が突出しかけたが,
真秀川で船上にいた治久が急使を出して間一髪,久続を制止した。

誘引を看破された尊国は,持久の構えをとる。

「宗治は,先に亜州での戦を失敗させた。
にもかかわらず盟友たる川上氏を救うだけではなく,
長駆して南海にまで進んでいる。

安達本領は不安定な状態であり,つけいるのは今である。

また仮に宗治が南海を制して本領へ戻ってきたとしても
その軍は疲弊しているだろう。

さらに,こちらは,一条公も安達領へ軍を進められた。
負けにくい局面である。」

というのが河本・四方堂主従の考えであり,
だからこその出兵でもあった。

しかし,一条軍は藤真軍によって進撃を止められた。
宗治も無事に南海を制した。

その上,河津を守る安達方の将 有間治久は若いながら,
隙を見せない。

ここに至って河本軍は,引き上げを選択した。

折しも,都で変事が起こる。

嘉徳10年(1518),皇太弟 詮晴が廃されたのである。

新たに,帝の実子である詮秀皇子が
嘉徳帝の太子に立てられた。

もともと嘉徳帝には男子がなく,
それゆえに弟 詮晴を後継者としていた。

ところが,実子が誕生したことで,皇太弟 詮晴の立場は危ういものとなった。

実子を可愛がる嘉徳帝は,
次第に詮晴を疎んじるようになり,ついに廃するに至ったという。

詮晴は廃された後,我が身の危険を大いに感じ,
危難が迫るより早く都を出,東軍盟主である宗治のもとへと落ちのびた。

宣昭帝以来,帝室は花岡同盟および
その枠組みを引き継いだ西軍を頼みにしてきた。

しかし,詮晴皇子は,より勢力伸長が著しい東軍の方を頼ったのである。