皇太弟奉戴

宗治は,詮晴皇子を帝室の正統を継承するべき人物として迎え,
かつて初代皇帝 始元帝や九代皇帝順正帝が行宮としていた
水奈府を御所として整備した。

「君側の奸を除き,詮晴皇子を皇太弟として復帰させる」

それが,宗治が掲げた名分であった。

つまり,嘉徳帝自体を直接否定するのではない。

嘉徳帝を惑わせようとする奸臣が朝廷を席巻しているので,
そうした現状を改めるという立場を採ったのである。

宗治は,西軍からの寝返りも視野に入れて,
西軍と親しい関係を保つ嘉徳帝を否定することは避けたのであった。

西軍内にも,皇太弟 詮晴を廃して詮秀皇子を皇太子に立てた嘉徳帝の決定に対し,
疑問をもつ向きがあったからである。

いきなりあからさまに東軍に鞍替えするという西軍諸侯はいなかったが,
戸惑う諸侯もいた。

すでに皇太弟が廃された段階から,
西軍内にはすくなからず,動揺が生じていた。

宗治の方針は,西軍陣営にくさびを打ったことは確かである。

ここにきて,河本詮尊は,西軍崩壊の危機を感じ取っていた。

それだけに,

「宗治は,真に陛下に忠義を誓うものではない。

宗治は,陛下と詮晴皇子を利用するだけの者に過ぎない。
宗治にいいようにさせては,帝室は危機をむかえる」

と,こちらも名分を掲げ宗治討伐の軍を起こした。

嘉徳11年(1519),宗治の入京を防ぐため,
河本軍,水陸4万は,安達の勢力圏にある沢口を攻撃したのである。

宗治は,自ら沢口に入ったが,
堅守の姿勢を崩さず,決戦を避け続けた。

対陣は3カ月に及んだが,
結局,大規模な衝突はなく,両軍ともに引き上げたのであった。

翌年,安達・河本両家は和睦した。

両家の抗争の発端であった,北家については,
宗治の弟 治房を正式な家督継承者とすることで決着した。

北家の所領については,現状維持となった。

つまり,現時点で安達方が制している地域は,
宗治の弟 北治房の所領,

河本方が制している地域は,
河本家が北家当主に推していた北晴房の所領と定められたのである。

従前より,宗治には,
入京のために後背地の安全を確保したいという思いがあった。

また,河本側も周囲の状況は,厳しさを増していた。

同盟者である香上家や本田家が,
姫村家や新名家といった新興勢力に押されだしたからである。

ところで,姫村氏と河本氏は元々,
ともに花岡同盟に参加する盟友であった。

しかし,姫村氏は、より強大で勢いある宗治の方に将来性を見出した。

こうして,姫村氏は,花岡同盟に起源をもつ西軍を離れ,
安達氏を盟主とする東軍に参加したのであった。

ともかく,背後を安定させたい安達側と
周囲の情勢を好転させたい河本側の利害は一致し,
両者は十年来の敵対関係にひとまず終止符を打った。