宗治入京

事態は急展開を迎える。
嘉徳13年(1521)広京で嘉徳帝が崩御したのである。

皇太子となっていた詮秀皇子が践祚したが,
無論,詮晴皇子を奉じる宗治は,これを認めない。

宗治は,河本氏と和睦して後背地が安定したこともあり,
この機を捉えて入京することにした。

安達の入京軍,総勢12万。
対する詮秀皇子側は,その半数,6万しか集められなかった。

西軍陣営は詮秀皇子の正統性をめぐって揺れていた。
というよりも,分裂したと言った方が正確であろう。

詮秀皇子の援軍要請に,
一条智成や河本詮尊などは応じなかったのである。

詮秀皇子は,畿内の平泉・久瀬両氏,
湾陰の本田氏の軍のみで,
安達軍を迎撃することになったのである。

河首の高田・秦(はた)氏なども,
詮秀皇子を支援していたが,それら諸侯は都からは遠く,
しかも,近隣に敵対諸侯を抱えていたため,
詮秀皇子を救援することはできなかった。

広京近郊,向原の地で平泉氏ら詮秀皇子方の軍を大破した安達軍12万は,
意気揚々と入京した。
詮秀皇子は,自害して果てる。

詮晴皇子は践祚し,やがて章仁の元号を建てる。
宗治は左大臣に昇進し,名実ともに天下人としての道へ踏み出すことになった。
安達政権の始まりである。時に宗治62歳。

章仁2年(1523),宗治は,章仁帝の詔に仮託して,
西軍諸侯に上京を促した。

ところが,一条智成,沢渡城(きずく)などは,
章仁帝の即位を認めながらも,

「宗治は,自身の権勢のために陛下を利用する者。
安達氏にくみすることはできない。」

として上京を明確に拒否し,
河本詮尊・香上義邦などは態度を明確にしなかった。

宗治は,まず,一条・沢渡両氏の討伐に動いた。
安達軍と一条・沢渡連合軍は,
西国から畿内への入口ともいうべき要衝,松下の地で対峙する。

松下で一条・沢渡両氏と安達軍が対峙すると,
河本詮尊は,安達氏との和約を破棄,
平泉氏や香上氏を誘って安達討伐軍を仕立てた。

さらに詮尊は,背州の海賊をも煽動し,
安達氏を牽制させる。

安達氏は,西軍に包囲されることになってしまったのであった。

さらに,直堂(じきどう)派と呼ばれる宗教勢力も反宗治の輪に加わった。
いわゆる直堂一揆である。
直堂派は,当初,安達政権に従う姿勢を見せた。

しかし,安達政権は,所領の直轄検地,人事への介入,信徒の直接把握など,
直堂派に対して内部介入を強めていく。

ここに至り,直堂派の堂主である周昭(しゅうしょう)は,
直堂派の自立性を保つため,松下の会戦に乗じて西軍と連携し,
安達政権に反旗を翻したのであった。