安達氏の栄華

直堂一揆,本田氏や秦氏の残党などによる一揆,
また相国検地に抵抗する各地の諸領主らの抵抗も,今や沈黙した。

広奈国内の戦乱は完全に終結したのである。

かつて一条智綱も成し得なかった帝国の再統一という大事業を成し遂げた宗治は,
章仁5年(1525),太政大臣へと昇進し,
幼少時の言葉の通り名実ともに「花岡公を超えた」のであった。

やがて宗治は,更なる栄典をも受けることとなる。

章仁帝は,

「朕を大いに輔けて,大乱を鎮め,社稷を安んじたことは,
古今類を見ない忠義と大功である。」

として,宗治に准三后(じゅさんごう)を受けさせたのである。

准三后とは,「三后に准ずる待遇」という意味を持つ。

三后とは,太皇太后・皇太后・皇后のことを表す。

つまり,准三后を受けたということは,
皇族並みの待遇を受けるということである。

しかも,宗治は,章仁帝の皇子のうち,
自身の娘 順子(なおこ)が生んだ詮貴を皇太子に立てることに成功した。

安達氏は,外戚となったのである。

さらに,章仁7年(1527),宗治が太政大臣の位を退くとその位には,
宗治の嫡男 元治が就いた。

太政大臣の位は,安達本宗家によって世襲されることになったのである。

宗治以降の安達家は,後世,相国(=太政大臣)家と称される。

発展する安達政権であったが,危機は突如として訪れる。

宗治の後継者である元治が,太政大臣位就任の翌年,薨去してしまったのである。

宗治は,元治の嫡男 正治を後継者に定めた。

しかし,宗治は

「元治は,余と共に苦労し,また思慮に優れ,人をよく見て適材を適所に配した。

守成に長けており,後を託すのに頼もしく思うところがあった。

しかるに,正治は,安達の家が随分と大きくなってから生まれ,
経験も少なく,未だ若い。

また,軽薄なところも見える」

と,正治の経験と器量に不安を感じていたのである。

宗治は,一門の結束を強化するとともに,一門の若手育成にも腐心し,
若手筆頭格であった甥の北元房を参議とした。

また,早良比良・有間渉遊(治久)ら賢臣を公卿に列し,
正治の周囲を固めていく。

老齢となった宗治は,次代を睨んだ体制整備にいそしんでいたのであるが,
章仁10年(1530)には,章仁帝が,崩御する。

11歳の皇太子 詮貴が帝位を継ぎ,
やがて清正(せいせい)の元号が建てられた。

宗治は,自身の孫を皇帝として戴く身となった。

ところがこの頃より宗治は,病床に伏し,
清正3年(1532),ついに薨去した。

享年72。

前年に,新帝の即位の礼が行われたばかりであった。

宗治は,首州を統一した。

しかし,その勢力を,亜州にまで及ぼすことはできなかった。

常盤全土に平安が訪れるのは,今少し後の世のこととなる。