甘波籠城

坂牧での勝利はしかし,ささやかなものであった。

引き続き勢威を誇る本田氏との抗争の激化を睨んで梓は,
天啓15年(1500),本拠 甘波の防衛強化を図る。

従来,常盤の都市は街壁を持たなかったが,
長引く戦乱の中で,状況は変化した。

城下の都市も土塁や石塁,濠を巡らせる
総構(そうがまえ)という防衛体制を採りはじめるようになった。

甘波も梓によって,
二重三重に濠と石塁を巡らせた堅固な構えを持つこととなる。

このころ,もはや何の権力も持たされていなかった高山斉尋であるが,
坂牧での本田軍敗北を見て,本田氏打倒を決意し,
梓のもとにも協力を求める密使がやってきた。

梓は,時期尚早であるとして,主君 斉尋を諌めた。

しかし,斉尋はあくまでも決起の構えを崩さず挙兵する。

結局,新名軍も斉尋のために出陣したが,
梓の予測通り斉尋の軍は本田氏に大敗,
新名軍も多くの損害を出した。

天啓17年(1502),斉尋は一族とともに自害,高山氏は滅亡した。

新名氏を始めとする反本田勢力は,
河本詮尊の庇護によりかろうじて滅亡を免れていたが,
天啓18年(1503),新名氏本拠 甘波には,
本田氏の大軍が押し寄せてくる。

新名方2千,本田方2万だったとも伝えられる。

梓は,甘波を堅く守って動かなかった。

甘波は,真秀川支流である結川(ゆうかわ)に面しており,
周囲は当時,湿地帯であった。

しかもその守りを梓が増強したばかり。

本田軍は,城兵に十倍する兵力を持っていたのであり,
それは常識的には攻城に十分とされる兵力比である。

本田軍は強攻を選択した。

しかし,湿地に足をとられて,
城内からの矢の雨の的になるばかり,
たちまち攻めあぐねてしまう。

本田方はなんとか新名勢を甘波から引っ張りだそうと,
甘波の周囲にひろがる田畑や集落を焼き払うなどして挑発を仕掛けた。

ところが,梓は一向に乗らない。

いよいよ,長期戦の様相を呈してきた。

本田軍が甘波に釘付けになっている状況を見て,
これまで傍観者であった河本軍が動く。

本田領へ侵入したのである。

本田方には,動揺が走り,梓は,これを見逃さなかった。

新名軍は,夜襲を決行した。

突如として,静から動へと転じた新名勢の攻撃に本田軍は大混乱に陥り,
甚大な被害を出した。

しかも,引き上げる本田軍は,
甘波の救援にやってきた姫村の客将 紗耶正信に襲撃され,
ここでも惨敗した。

河本詮尊などは,
混乱する本田家中に調略を仕掛け,
家永氏を寝返らせている。

しかしながら,本田氏の停滞は,
一時のことでしかなかった。

連年,本田氏は,蘇我日野氏の領土を蚕食し,
天啓21年(1506)に至って,ついに蘇我日野氏を滅亡に追い込んだ。

そして新名家では,戦勝から程なく,梓の父 優が亡くなった。