本田斉清の死

梓は,有帆日野氏の勢力を殺ぐべく調略を仕掛けた。

日野氏と日野家中の有力者 冴島氏を反目させたのである。

日野氏当主 詮親は,祥親の代から始められた諸侯権力の強化政策に,
躍起になって取り組んでいた。

勢力圏における日野氏の存在を,
連合体の盟主程度のものから,
絶対的な支配者へと変えようとしていたのである。

それは,日野氏だけでなく,
この当時,各地の多くの群雄が取り組んでいる課題でもあった。

しかし,群雄が権力強化を図れば,
その傘下の領主達は,自己の領主権を奪われていくことになる。

それは,群雄に対する諸領主の反発を招くことになる。

日野氏の領国は,
日野氏の権力と傘下の諸領主の危うい均衡の上に成り立っていた。

姫村孝治は,かつて香上氏当主に津島邦貴という有力領主を殺害させて,
香上氏と香上家臣団を反目させたが,
梓はこれとはまた違った形で,
群雄と領主層の危うい均衡をうまく利用する。

冴島氏は,新名氏と連携をとって日野氏に反旗を翻した。

冴島氏にしてみれば,日野氏の傘下にいるより,
新名氏の盟友になった方が,独立性を保てる。

また,新名氏が危うくなっても,
日野氏の下に戻ればよいだけの話である。

群雄が自領国での権力を確立しきっていないこの当時,
そうした「出戻り」は,多く咎めを受けずに認められていたのであるから。

天啓末年(1509),冴島氏に背かれた有帆日野氏は,
本田氏の援軍とともに冴島氏を攻撃するため軍を動かしたが,
成功しなかった。

本田軍が戦線離脱したためである。

これは本田家で,当主の斉清が急死したのが原因であった。

斉清の後継となったのは,その嫡男 信熙であった。

しかし,信熙は元来,病弱であり,
家督継承からわずか1年で継嗣のないまま亡くなってしまう。

信熙の後は,その従弟である信茂が継いだが,
病弱な当主を間に挟んで短期間に繰り返された当主の交替は,
確実に本田家を弱めてしまった。

攻勢を強める新名軍は,本田氏の勢力圏へ連年侵攻し,
岩井氏や杉森氏などの有力領主を降したばかりか,

嘉徳4年(1512)には,
要衝 平岡へ侵入してきた本田方の中村顕繁を敗死させ,
翌年には,逆に中村氏を攻め滅ぼすなど勢威を示している。