吉羽攻略

梓は,なおも吉羽の攻略を目指した。

ここを制圧出来れば,
本田氏と有帆日野氏の連絡を完全に遮断することができる上,
真秀川交易圏へと進出できるからである。

嘉徳8年(1516),新名軍8千が南下すると,
呼応して姫村軍4千も本田領を侵した。

本田氏は,北の新名と南の姫村に
挾み撃ちにされる格好となったのである。

本田方はまず,より少数である姫村の侵攻軍に猛攻を加えて撃破,
そののち,新名軍に全力を傾注した。

吉羽の包囲に入っていた新名軍は,包囲を継続しつつ,
姫村軍を破って勢いに乗る本田軍を迎え撃つべく態勢を整える。

両軍とも慎重であり,
吉羽近辺の各所で小競り合いが続いたが,
対陣二か月に及び,ついに新名軍は撤退した。

梓は,吉羽の内部切り崩しにとりかかった。

中川総政の内応が本田方に露見した前例があるためか,
このときには,より徹底した調略が行われたようである。

嘉徳9年(1517),旧蘇我領の分配を約束して,
福満真幸(ふくみつ・さねゆき)・常光繁尚(つねみつ・しげなお)・
真崎忠広(まさき・ただひろ)を内応させた。

片貝清寿は敗死,吉羽は,新名領となった。

有帆日野氏との連絡を絶たれ本田氏は,
孤立するかに見えた。

ところが,有帆日野氏が,大挙して真秀川を渡り,
冴島氏を攻撃,支えきれなくなった冴島氏が日野方へ復帰してしまった。

これにより,有帆日野氏と本田氏の連絡は,復活したのであった。

嘉徳10年(1518),日野・本田両氏は,
早速,吉羽の奪還を目指して侵攻してきた。

新名氏の盟友である紗耶正信が,
河首の秦氏と争っている隙をついた攻撃であった。

しかし,吉羽を堅守する新名軍に,
日野・本田連合軍はなすすべがない。

紗耶正信は,秦氏を破ると,
たちまち新名氏の救援に動く。

日野・本田連合軍は,
紗耶正信の素早い行動に動揺し,撤退したのであった。