安達政権の影響

安達宗治の勢力伸長が著しくなった。

嘉徳帝が,皇太弟 詮晴を廃し,
実子 詮秀を太子に立てると,その決定をめぐって西軍は割れ,
詮晴皇子の復権で一致した宗治率いる東軍陣営の前に劣勢となっていた。

西軍の有力諸侯である河本氏が安達氏と和睦すると,
いよいよ西軍の凋落は顕著になる。

その影響は,新名氏と本田氏の争いの上にも現れてきた。

西軍方の本田氏から
東軍方の新名氏へと鞍替えする領主が出てきたのである。

中でも嘉徳13年(1520)に,本田傘下の有力領主である,
春瀬氏が新名陣営へと転じたことは,
本田陣営を大いに動揺させた。

しかも,新太子 詮秀に対する態度の違いから,
本田氏は有帆日野氏とも疎遠になり,孤立し始める。

本田氏は,新太子 詮秀を支持しており,
同じ立場をとる秦氏や香上氏,
畿内の諸侯と連携を図ろうとした。

しかし,秦氏は紗耶氏との抗争で手一杯であり,
香上氏は,姫村氏の攻勢の前に風前の灯,
畿内の諸侯は,安達氏の来襲を予期して戦々恐々としていた。

嘉徳帝が崩御すると,
皇太子 詮秀皇子と宗治が推す詮晴皇子が
帝位を争う事態が本格化する。

東軍はいよいよ,詮晴皇子を押し立てての入京を企てた。

新名氏は,詮晴皇子を支持し,男爵を授けられ,
「諸侯」の格を手に入れたのである。

本田信茂は,詮秀皇子方の救援要請に応じて畿内に入る。

詮秀方は大敗,
宗治率いる東軍が入京を果たして詮晴皇子を践祚させた。

本田軍は,当初より詮秀方の旗色悪しと見て積極的には戦わず,
いち早く戦場を離脱したため,被害は大きくなかった。

章仁3年(1523),安達宗治に対して西軍が包囲網を形成すると,
新名氏は,安達政権に属する勢力として,
河本・香上征伐への参加を求められる。

新名家中では,留守を本田軍に狙われるとして,
河本・香上征伐への参加を見送るべきであると唱える声もあった。

しかし,梓の腹心である湯生暁高(ゆい・あきたか)は,

「西軍にはもはや,安達氏の覇権を脅かすだけの力はありません。

宗治公の命に従い兵を出すことこそが
当家を守る最良の方法でございます。

本田を恐れて,兵を出し渋ることは,
宗治公の力を信頼していないと天下に公言するようなものです。

後々,宗治公の怒りを買うことになりましょう。

逆に宗治公のために兵を出せば,
宗治公に恩を売ることができます。

出兵のために仮に一時,
本田信茂のために所領を失うことになろうとも,

危険を冒してまで宗治公のために働いた新名の家を,
宗治公はおろそかにはしないでしょう。」

と,安達氏に従うべきだと説き,
さらに留守居を買って出た。

梓は,湯生暁高に自領を任せて,河本・香上征伐へと出陣した。