悲願成就

梓が新名軍主力を率いて出陣すると,
本田信茂は,水陸2万の兵を率いて,
新名領へと侵攻した。

本田軍は,真秀川の制水権奪還を狙い,
吉羽攻略を目指したが,
水陸双方で新名方の強烈な抵抗に遭遇する。

他方,西軍による反安達包囲網は,
早くも崩壊し始めていた。

一条・沢渡連合軍は,
松下の安達軍を突破できず,
平泉氏は新郷で宗治の軍に大破された。

さらに,宗治は,
その勢いのまま河本・香上連合軍をも潰走させる。

この間,わずかにふた月余り……
東軍の勝報を聴くと,本田信茂は,即座に新名領から撤兵した。

戦後,本田氏は安達政権によって改易された。

本田氏はこれに反発して蜂起したが,章仁4年(1524),
安達氏の援軍を得た梓が鎮圧した。

梓は父の代からの悲願である,
本田氏の打倒をついに果たしたのである。

さらに,新名氏は,
河本・香上討伐,本田氏の蜂起鎮圧を賞されて,
本田氏の旧領を全て与えられ,爵位をも進められて子爵となった。

また,先に湯生暁高が梓に進言した通り,
危険を冒してまで宗治のために働いた新名梓に対する宗治の覚えは,
非常にめでたく,
安達政権は,新名氏に,
一条氏や河本氏に対する牽制の役割をも期待したと言われる。

梓は,名実ともに有力諸侯の仲間入りを果たしたのである。

しかしながら,
潜んでいた動乱の影は再びうごめきはじめた。

清正3年(1532),入京から11年,天下人 安達宗治が薨去したのである。

翌年,安達政権中枢部で事件が起こる。

政権の要人である有間治久が宗治の後継者 正治の勘気を被り,
左遷されたのである。

正治が示した一条氏討伐の意向に,
治久が反対したことが原因であるとされている。

正治が一条討伐を考えだしたのは,
宗治薨去後,一条智成が政権の許可無く
領内防備の強化を図ったためと言われる。

有間治久は,戦わずして勝つことができる状況を作り上げるのが先で,
武力行使は最後の手段であると考えており,
いきなり武力を用いようとする主君 正治を諌めたのであるが,
正治には届かなかったのである。

新名氏も出兵の命を受けた。

梓は,出陣はしたが,
まともに一条勢とぶつかりあうことはしなかった。

正治の力量に疑問を持っていたからである。

清正5年(1534),正治は自ら兵を率いて一条討伐に出陣し,
そして敗れ,一条・沢渡・日野三氏による
西国諸侯の連合軍に包囲される危機に陥った。

正治に左遷されていた有間治久は,
急遽手勢を引き連れ正治の救出に向かい,
そのまま一条・沢渡・日野連合軍を潰走させてしまった。

新名梓は,安達宗治薨去の直後から,

「有間殿のある限りは,安達氏の天下が続くであろう」と語っていたが,

一条氏ら旧西軍諸侯も
有間治久という人物の胆力と才略に一目おくようになった。

とはいえ,正治と治久の主従関係は以後も,
決して安定したものではなく,
宗治に資質で数段劣る正治のもとで,
安達政権は緩やかに衰え始めるのであった。