新名氏と紗耶氏

戦後,梓は,紗耶氏との関係改善を図る。

湾陰・湾陽の内,大神・一条氏の領国は,紗耶氏の領分,
日野氏の領国は,新名氏の領分とすることが両氏の間で取り決められた。

このころ,紗耶氏は,広奈国からの独立を画策しており,
その準備を進めていた。

紗耶氏は,独立を表明した時に,安達政権の討伐を受けることを強く警戒していた。

有間治久という傑物が,安達政権に存在しているからであった。

紗耶氏の軍師 藍原広真は,

「当面は,新名・姫村両氏を安達政権から引き離し,
当家の味方としておくべきです。

両氏は安達方に対する強力な防波堤となります。」

と主君 正信に説いた。

正信は,広真の進言を容れ,新名氏との親交を継続することとしたのである。

程なく,紗耶正信は,各務国の復興を宣言,皇帝号を称して,光復の元号を建てる。

さらに河首道の大宮を公京(くぎょう)と改名して都とした。

この年,清正7年(1536)は,各務国では光興元年となる。

各務国とは,広奈国に滅ぼされた首州の統一王朝であり,
紗耶氏は,その末裔でもあった。

先の各務国と区別するために紗耶氏の建てた各務国は,後各務国と呼ばれる。

このころ,安達政権は,
一条氏を始めとする西国諸侯との関係を改善しており,
紗耶正信打倒のための包囲網を敷き始めていた。

無論,その包囲網を組み立てたのは安達正治ではなく,有間治久である。

梓は,有間治久を畏怖しながらも,
安達政権に不安を抱き,紗耶氏との親交の方を重んじた。

安達政権の不安材料……
それは,暗愚と言われる安達正治の力量と,
正治と有間治久の不安定な主従関係に他ならない。

また,梓という人は「ゆかり」を大事にする人である。

彼は,父の遺志である本田氏打倒を目指し,
それを果たした後は始祖の栄華を追いかけている。

梓にとっては,自身が最も苦しい時期から,
盟友であった紗耶正信とのつながりの方が,
安達政権より大事だったのである。

「安達家には大恩を受けた。

しかしそれは,安達家が天下の覇者となったからであり,
覇者として当たり前に天下を経営しただけのことである。

けれども紗耶家は,数多ある群雄の中から,当家を盟友とした。

しかも紗耶家自体も決して大きな力を持っていなかった頃に,
危難にある私を救った。これは類まれなる恩である。」

と梓自身が,語っているとおりである。

ところが,その紗耶正信は,清正9年=光興3年(1538)に,崩じた。

この時,一条・日野・大神の三氏による連合軍が,
後各務国領である遊井地方への侵入を試みたのだが,
新名軍は,直ちに遊井を救援している。

結局,陣中で一条当主の智成が病死したため,三氏は撤兵していった。

そして,清正12年(1541),梓も,日野氏との抗争を繰り広げる中,卒去した。

65歳であった。

後を継いだのは嫡男の志である。

志は,文武に優れた人であり,新名氏は,さらに勢力を拡大していく。