独立

正信は,秦氏攻略を企図したが,
まずは,河本軍の侵攻に対処することとなった。

東軍に鞍替えした姫村氏に一撃を加えるべく,天啓21年(1506),
河本詮尊は,堀内親直に1万の兵を与えて湖西へ差し向けた。

姫村領の前線を預かる紗耶正信は,手勢3千。

この戦いは,英主 河本詮尊が差配を誤った稀有な例である。

堀内親直は武勇に優れ,鶴見の戦いでも戦場で勇躍し,
詮尊に気に入られた。

しかし,彼は一軍の将として万の兵を動かせる器ではなかった。

河本家の名将 四方堂尊国は,
香上氏と対峙しており湖東地方にいたが,
堀内親直が将として選ばれたという報を聞いて,
直ちに,書簡をしたためて主君を諌めている。

だが,この遠方からの諫止は,一歩遅かった。

正信率いる紗耶軍は,領内で敵を迎え撃つのではなく,
積極的に河本方の勢力圏へ打って出る方針を採った。

藍原広真の進言を容れたものである。

この動きに堀内親直は虚を突かれた形となった。

少数しか持たない紗耶勢の方が,
河本領へ侵入してくるとは思ってもいなかったのである。

真秀川をいち早く渡河した紗耶軍は,
河本軍に夜襲を仕掛けて,その陣も渡河用の兵船も焼き払った。

将としての経験がない堀内親直には,
動揺する軍を上手く立て直すことができない。

河本軍は,沼原(ぬはら)に撤収するが,
城内は不穏であった。

なにしろ,紗耶軍には,
早晩,姫村本隊から救援がやってくるはずだからである。

藍原広真が沼原に籠る諸将に調略を仕掛けると,
河本方から紗耶方へと寝返るものが少なからず現れた。

疑心暗鬼に陥った堀内親直は,
沼原を放棄して河本家本拠 生原へと落ちていった。

正信は,軸となる戦力を失った沼原を陥落させ,
以後,ここを本拠に独立した群雄として歩み始める。