正信は,かつて姫村氏の客将だった際,
侵攻してくる秦軍を単独で,撃破した。
また,近くは,沼原で河本の大軍を破っている。
そうした影響もあって,
紗耶方からの誘いに応じる秦軍の領主は少なくなかった。
槙島氏,大宅氏,園上氏など,
白石より北東の山岳部に勢力を持つ諸豪が紗耶氏になびくと,
正信は,これを足掛かりに,白石周辺の要衝の攻略に取り掛かった。
さらに,藍原水軍が,
白石の南を流れる真秀川の制水権を掌握しにかかった。
秦氏は,東の出入口である白石の防衛に全力を傾注したが,
嘉徳5年(1513),矢口の戦いで,藍原水軍に敗れると,
白石周辺での制水権維持がおぼつかなくなる。
しかも,秦氏は当時,紗耶氏以外にも困難を抱えていた。
秦氏は,嘉徳3年(1511)に,河首道河南地方の亘理氏を滅亡させた。
秦氏の本拠は,河首道河北にあるため,
亘理氏とは真秀川を挟んで向かい合っている。
この亘理氏は,
もともと秦氏に属する領主だったが,
秦氏から離反する動きを見せた。
秦氏はこれを看過できず,真秀川を渡り,
亘理氏を潰したのである。
しかし,事はそれですまなかった。
亘理氏の残党は依然として河南に勢力を張って,
抵抗を続けたからである。
秦氏は,亘理氏を抑えるために,
水上勢力を割かなくてはならなかったのである。
こうしたこともあって秦氏は,紗耶方の藍原水軍に競り負けてしまった。
もちろん,正信は,亘理氏を裏から支援していた。
こうした中,嘉徳7年(1515),
白石の最終防衛線の要衝ともいえる若槻が紗耶氏に降った。
若槻の守将 吉永久法(よしなが・ひさのり)が秦氏から紗耶氏に鞍替えしたのである。
白石攻略が一挙に近くなった。
